< 小論 と 解説 >
無我執観念基盤で自由自在満喫 (1994/8/23)

 無我執体得を研鑽実践していく中で、日常の考えや行いの元には何らかの観念があり、それは直接表面には現われないものだが、考え行うこと全ての基盤になっていることが判ってきました。一寸した心の動きや感情も皆そこから発しているもので、表面に現われたそのものではなく、その元の観念に我執があるのだと観えてきました。
 そうすると、ひっかかったり、暗くなったり、落ち込んだりするのは、他に原因は一切無く、私自身の我執の現われには違いないが、だからといって、ひっかからない、暗くない、落ち込まないから無我執かと言えば、決してそうだとは言い切れないようです。我執が現われて発見できたからといって、そう現われない様に努めても、元の我執は無くなりませんし、無我執体得にはなりません。ではどうすればよいか、先ず生来の人間性である無我執状態というものを知っておく必要があります。
 観念を放した、何も持たない観念状態では、自分を特別視せず、自己に固執しなくなり、自他の考えや行いに執われません。人間の考えは常に変わり得るもので、その都度、違ったり変わったりするのが当然で、固定できるものではないから、自分も人も誰の考えや行いも、良いともダメともしないで受け入れていけるのです。ここに、人間の判断能力の不確かさを知り、その分をわきまえつつ、人知を結集して、真理を究め、間違いを正し、真実世界実現に向けて、ひとと共に力を合わせて行おうとする出発点があります。
 真理は不動、人間の考えは無固定で、現象は一時の休みなく前進しています。絶えず最高最善最終的なものを目指し、真理に則応しようとする世界には、どこにも固定や停滞がありません。固定も停滞もない、何も持たない、ひとと共に栄えんとする中にこそ、縛らず縛られず自由自在に考え行える真の人生があるのではないでしょうか。
 これまでの既成社会でも自由を相当重要視していますが、生来の人間性を忘れ、我執を肯定する観念基盤からいくら自由を追い求めても、万人向けの真の自由は遠ざかるばかりでしょう。
 固定断定、境、囲い、隔て、殻を脱いで、外して、放して、持たない観念を用意してみると、そこには自由自在・思うがままの世界があり、悠々自適のイズム生活が拡がっていきます。