< 小論 と 解説 >
正しいと思っていること自体思い違い (1994/6/24)

 数カ月前の「研鑽を身につける」テーマの中で、先ず「人間の判断能力の不確かさ」を知ることの重要性が研鑽されました。
 これをよく知らないと、いつの間にか「自分の目から見ている」ということを忘れて、良いとか悪いとか、正しいとか間違っているとか、判断しようとしてしまいます。頑固・我執に至る、自らの判断能力を忘れた無知・傲慢さを先ず解消したいものです。
 「正しいとキメつけていることはありますか?」と尋ねられると、あまり無いように思っています。そこで本当に無いか、よく検べてみます。例えば、人は間違ったことや正しくないことをしたいとは思わないのが殆どでしょうが、そう言いながらも、より良きを目指し正しきを願ってやっていくことを「正しいと思っている」かもしれません。これが高じると、世のため人のためにすることは正しい、みんなが願っていることをやるのは正しい、幸福運動は正しい、正義は正しい、となっていくのではないでしょうか。
 いくらより良きを目指しても、正しきを願っても、だからといってそれを正しいとは言い切れるものでなく、そういう願いや考えや行為も正しくないかも判らないとして、より良きを目指し正しきを願ってやっていく、そういうキメつけのない生き方ではないでしょうか。
 真理に則応することが正しい、と「正しい」の定義づけは出来るとしても、では何が真理に則応した状態か、正しい姿か、人間には決定づけることは出来ないのではないかとするものです。どこまで行っても、これが正しいのではないか、これは正しくないのではないか、としか言いようのないものだと思うのですが、どうでしょうか。

 『ヤマギシズムを知り、これこそ絶対だという人が沢山あるそうだが、そうキメつける所に宗教、信仰、盲信、形態が生まれる恐れがあり、そう思い込んでキメつけるなれば、既にヤマギシズムでなく、こうしたヤマギシズムの考え方そのものをも正しいか正しくないか判らないから、尚調べていこうとする考え方がヤマギシズムだと思う。ヤマギシズムが良いとキメつけない処がヤマギシズムだと思う。』

山岸巳「私はヤマギシズムをこう思う」より抜粋