< 小論 と 解説 >
N氏への書簡 (1994/5/4)

 その後、いかがお過ごしですか。
先日、バスに乗る前に、フト思い立って申し上げたいことがあったのですが、その時は立ち話になってしまうので、お話しできませんでした。後になって、やはり私の意見を聞いておいて頂こうと思い、筆をとる、とは言えませんが、こうしてタイプすることにしました。
 その内容は「思想や方法論からの学問的探究」と「自身の心境や生き方の思惟」は、本質的には遊離するものではないということです。まあ、もっと他にも色々な切り口はあるでしょうが、例えばこの二つの側面から探究していっても、行き着くところは一つだと思えるのです。
 「自分に向き合え」とはよく聞くことですが、確かにそれが優先する場合が多いのでしょうが、突き詰めると、自分に向き合うのも、物に向き合うのも、社会と向き合うのも、行き着くところ一つだと思うのです。
 どちらかに片寄ると、もう一方が片手落ちになるように見えるのは、ひと口でいうと「徹底していない」だけのことだと思うのです。徹底究明して突き詰めると、行き着くところ一つの答えが出るように思うのです。

 科学技術は500年前、1000年前を見ると、比較にならない程進んでいるように言われていますが、でもよく見てみると、その割には世界恒久平和の道や、人間自身の幸福条件や、それに至る方法などなどに向けては、誠に分析解明に見るべきものがない有り様です。中にはこの様な課題は科学技術などとは分野外あるいは無縁のものだと思っている人もある位で、知能程度を疑いたくもなります。
 科学・科学といっても人間自身や人間社会の課題を考察しない科学などは、如何にも幼稚極まりないと思うのです。エラそうに言うようですが、そういう意味では全くなっていないと言えます。

 又、もう一つの側面である、人間科学や人間社会科学の方は全くの手つかずといっていい状態で、2000年前3000年前とも変っていません。逆にその頃の方が人間については把握されていたのではないかと思う程です。精神面や心理面のことで、分らないことが沢山あるからといって、それを神や仏や絶対者を仮定して思い込ませるやり方にはどうしても無理があるし、それよりも何よりも、人間としてやるべきことを放棄する卑怯なやり方だと思っています。
 怒りすらも解決できないで、過去の部分的事実だけで説明づけて、「人間とはこういうものだ」と人間そのものを本質的に調べようとしている人は何処にもいないかの如くです。

 私は、環境問題からでも、産業経済からでも、また人間自身の幸福論・人生観からも、人間自身や人間社会の「本当のあり方」と「それに至る方法」が明快に解けるものと確信しております。その鍵は唯一、研鑽にあり、研鑽する人にあり、と思うもので、今日までそれに楽しみと、歓びと、面白みと、生き甲斐と、確かな手ごたえ、確かな実感をもって、今日に至っております。
 これはもう、やり出したらやめられない大仕事なのです。一人でも多くの人と共に沢山の頭脳・技術・知恵を持ち寄って、大きな大きな大きな力で実行する必要があると思っています。同調の人々の参加活動を切望する所以であります。

 情勢というのは時代的背景もあり、情勢が出来るにはある程度時間も必要でしょうから、私の立場としたら、そういう情勢が出来たときに見損ないをさせぬ様に、しっかりしたものを作って、誰でも見ればわかる、やれば出来る実態を齎すことだと自任しています。ヤマギシズムからの正確で明快な解説も必要でしょうからね。
 今後のご活躍を期待しております。
 全人の幸を希求する、同志相棒として・・・・