BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― 研鑽科学 山岸巳代蔵 思想 研究 ――
<< 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 >> total 66p

Category: < 研鑽の理 > | 2008.08.01 Friday 20:00

研鑽科学(ヤマギシズム)について

【研鑽科学という表現】
40年以上に渡って、日本では「ヤマギシズム」という言葉が、団体固有の名称として用いられてきた為に、この言葉を用いると誤解が生じ易く、あえて「ヤマギシズム」という言葉を避けて、「研鑽科学」という言葉を用いています。
ヤマギシの組織が公表している資料やホームページには、「ヤマギシズム」について言及した解説は殆どなく、「無所有一体の生き方」などという表現がされてある。
無所有一体共用生活が「ヤマギシズム」ではない。
仲良い楽しい幸福社会を作ろうとする会や活動が「ヤマギシズム」ではない。
「ヤマギシズム」はイズムであり、考え方である。
「ヤマギシズム」からくる無所有一体共用の仲良い楽しい幸福社会というものはあるだろうが、
無所有一体共用の仲良い楽しい幸福社会が「ヤマギシズム」ではない。
無所有とか一体などの表現は古来からあるもので、理念でもないし、ヤマギシズムを表す言葉でもない。
敢えて云うなら、ヤマギシズムそのものが理念であり、研鑽が理念である。
「無所有一体社会が宗教化したら大変」(1961.10 第5回理念研鑽会)
「ヤマギシズムは言葉でも文字でもなく、現象でもなく、一つの考え方に過ぎないもので、・・・」(1960.4 ヤマギシズムと山岸会)
「ヤマギシズム」と呼ぼうと呼ぶまいと、中身が「ヤマギシズム」かどうか、つまり「研鑽」があるか、どうか。



【偏らない固定のない科学哲学、即ち研鑽】
研鑽という言葉は、学問・技術・芸術など専門的に深く究めるという意味に用いられる。
私たちが用いている広い意味での研鑽科学は、特定の人ではなく、人間なら誰にも当てはまると思われることで、研鑽(深く究める)ということを平易に云うと、安易に分かったとか出来たとか結論づけない営みとも言える。
日常の見る・聞くという行為でも、見たから聞いたから分かった知ったと結論づけないで、事実・実際・真相はどうなんだろうという考え方を研鑽と呼んでいる。
例えば、薬を飲んで病気が治ったり、拝んで病気が治ったりすると、
「薬を飲んだからだ、拝んだからだ」となる。
「物が落下するのを見て重力の作用だ」となる。
「形態を見て、無所有だ、一体だ、ヤマギシズムだ、研鑽会だ」となる。
これらは現象面を捉えて、そのものを捉えているつもりになっている例と云えるだろう。

このことを、もう少し突っ込んで見てみると、現状では「こんなことを言った人」「あんな行為をした人」と、発言や行動を捉えて、人を判断していることが多々あるだろう。犯罪と云われる行為をした人は悪い人とされるし、皆が喜ぶような行為をする人は良い人とされ易い。

研鑽によると、人の行為についても、現象面の目に見える言動よりも、その言動に至るその人の心の状態や考え方などに重点をおくようになる。
人の言動や凡ゆる事象について、人間の持つ感覚器官で捉えたものをベースにして、その背景や底にある内面・真相・原理を知ろうとする知能の働きが、科学であり哲学だと思う。



【研鑽の実現、本質的なものに重点をおく】
社会組織についても、現在までの社会通念では、規範とか秩序を重んじ、規律を守るとか、真面目に働くとか、そのような現象面のこと(行為)をとても重要視している。
人間教育・躾け・道徳などは、心を大切にしているようだが、やはりその結果、良い行為をするかどうか、行為が悪ければ効果がないと見なす。
良い行為をするのが良い人間で、心や考えが良いと見ている。
逆に、悪い行為をするのは、悪い人間で、心や考えが悪いと見なされる。
正しい心や考えを教育して、罰則によって悪い行為をなくせば、誰もが義務や責任、規則や契約を守り、物が豊富で便利になり、人の幸福や社会の平和が実現するかのように思われているようだ。
ヤマギシズムを名乗っていても、
私有財産を持たないとか、独断独走しないとか、皆で相談して決める等することが、ヤマギシズムを現しているかのように思い易く、そういったことに力を入れるようになる。
現に、どうすることが「ヤマギシズム」なのか、分からなくなっていると思う。
故に、今までやってきた形態を守り踏襲することで、ヤマギシズムを実践しているかのように、今日の活動に意義を付けたがるのだろう。

歴史的事実や社会通念によって「人間とはこういうものだ」との観念が強いために、人間や社会を本質的に見ようとする観点が育たない。現状の人間や社会組織をどうしたらよいかという発想から抜け出せない。

凡ゆる動植物は、正に自然体でそのものらしく脈々と生き続けている。
何故、人間には努力や頑張り、我慢や辛抱、規律や統制が要るのだろう。それは人間の本分である知性に逆行するものと思う。
自然体でそのものらしく生きる人間本来の姿を知ろうとしていないのではないか。
ヤマギシズムは「人間とは、社会とは」と、その本質を科学哲学する思想である。

Category: マイプロフィール | 2008.07.31 Thursday 21:00

ライフワーク

人間と社会に関する問題をやってきた

そして、人間にとっての本当の幸福と、人間らしい本当の社会のあり方と実現方法がハッキリしてきた。
それを実験・実現するために鈴鹿に来たともいえる。

その内容を説明するために解説文などを書いて、公開しているが、
とにかく書いたものを読んだくらいでは、「そんなこと実現できる訳がない」と相手にされないから、
規模は小さくても、実際に実現されたものを見れば、誰にも分かり易いと思って、それをやっている。

説明といっても難しい内容ではないので、先入観念を入れずに理解しようとして読めば、誰でも分かると思うので、10年先20年先のために、書き貯めて、遺しておこうと思う。

Category: < 一体の理 > | 2008.07.12 Saturday 17:00

共に暮らす 2

見ず知らずの子どもが、「そこに大きなヘビがいたよ〜!」と話しかけてきた。
こういう時の子どもの中はどんなだろう。
大人にもあるね。
例えば、大きな事故を目撃したら、見知らぬ人にでも、「そこで大きな事故があったんですよ」と、つい話しかけてしまうとか・・・。
でも、人によっては、そういう気持ちが湧いても、見知らぬ人だと、平常顔を装い抑えてしまう作用が働く場合もある。何故だろう?


子ども時代を想うと、学校は友だちとの暮らしの場であったような気がする。小学校の頃はこれが更に顕著で、友達と遊ぶために学校へ行ってたような気がする。
中学・高校・学生時代の友とは、何でも喋り、きついことや嫌なことも言い合ったり、腹を立てて喧嘩したり、親兄弟とも一味違った親しい仲にもなる。

大人になるにつれ、それぞれの進路に別れ疎遠になって、よそよそしい関係になっていく。
就職しても、その職場環境やそこにいる人によって、同僚との暮らしの場になっている人もいる。(人生の豊かさに大きく影響すると思う)
大人になっても長屋の八っつぁん熊さんのように不審や警戒や疑いもなく開けっ広げで暮らせる人もいる。
犬や猫もそこの家や家族に馴染んでしまうと、獣の本性を忘れたのではないかと思うくらい無防備で大の字になって寝たりする。


「共に暮す」という言葉の響きから「同居」をイメージされそうだが、意義や使命で寄って、優劣感上下感の中で遠慮・気兼ねの要る暮らしは、人と共に暮しているとは云えないだろう。
「人と」ではなく、何かと暮している・・・?
施設や環境を整えて、一つの地に寄って住めば、果たして人は仲良く安心して共に暮らせるのだろうか?

周囲の人に不審や疑いの目が有れば、安心して共に暮らせない。
周囲の人に無くても自身の中に不審や疑いが有ると、共に暮らせない。


幼い子どもには不審とか疑うという気持ちがない。人や自分を縛るということもない。
そういう子どもに対する方にも、不審とか疑うとか縛るという気持ちは生じない。
こういうの「相関関係」っていうのかな。「社会の成り立ち」もこの辺りにありそうな気がする。
人の根底をなす「もののあわれ」というものかな・・・

人と共に暮らせる人の豊かさを想い、その中で人と共に暮らす自分。
人と共に明け暮れる毎日の連続かな。

Category: < 一体の理 > | 2008.07.09 Wednesday 13:00

共に暮らす 1

10代のある時期から、この先、大人になって社会に出て、就職して、結婚して、子どもができて、家庭を作って、家族を養って・・・、
そんなこと、やってもなぁー、と悶々と悩んでいることがあった。

ふとしたキッカケで、ヤマギシズムというものに出会った。
考え方・主義・思想で、この生き方に惹かれたという面も強いが、
今、想えば、自分を一番大きく動かしたのは、
やはり、「共に暮らしている」という実態だと思う。
 (昭和40年代に触れた春日山と豊里)
そこは、何かをやるという目的で集まって来ていることは確かだが、それだけではない、次元の違うような何かを感じた。
何かをやっても何もやらなくても、「共に暮らしている」という感じかな。
子どもがいる、老人がいる、飲んだくれている人がいる、結婚や出産がある・・・・・・理屈に無頓着で講釈しない大半の住み人たち。


しかし、その後は、「共に暮らす」という実態についての研鑽もなく、他のことに多くの歳月とエネルギーを費やしてきたと思う。
そして、ここに来て初めて「共に暮らす」実態の研鑽が始まったと思う。
近所に住んで職場や研鑽会で顔を合わせていても、共に暮らしている人と、そうでない人がある。

一体(無所有)と呼んでもいいが、そんな言葉も理屈も要らない、それより前に、そのままで共に暮らしている人。
人は生まれながらにして、親兄弟など「人と共に暮す」実態を身をもって知っている筈、成長につれて自分を知り多くの人を知り、人と共に暮らす広大な世界に住み得るもので、それがその人の人生を如何に豊かにするものか言うまでもない。モノカネの富みなど比ではない。


しかし、成長過程で多くの不審感 警戒心 猜疑心などを身につけ、共に暮せなくなっている。
元来、人はひとりでは寂しい。友を求め、家庭を欲するのも、幼い頃に共に暮らした感覚からだろうか。少ない家族で小さな城に個々に貯えて、わざわざ狭く小さく生涯を送ろうとしているかのようだ。
知らず知らずのうちに身についた観念で「個々で暮らす」のがベースになり、その上で都合によって「一緒にやろう」という意識が生まれる。

「一緒にやろう」という後付け意識と、元から「共に暮らしている」のとは全然別ものと思う。

「共に暮そう」と、意識でそう思うのでなく、何の囲いも持たない元来の「共に暮らす人」に立ち還ることだと思う。そうはいっても現状では、周囲の気風や環境に依るところが大きいから、やはり「共に暮らせる人」が「共に暮らしている」実態が大きいと思う。
最も安全な、誰にも盗られぬ、子孫永久に栄える、世界幸福株に乗り換えているのに、何が貧乏しているのでしょうか。(山岸会養鶏法)
何処かの一角から、後で度々改修しなくてよい立派な道路と、交通整理係も要らない道標を創り、乗り物も用意し、これならいけると、誰でも共鳴して協力されるキッカケを、・・・(ヤマギシズム社会の実態)
「人と人が境なく共に暮らす」誰にも解り易い実態を・・・

Category: < つれづれ > | 2008.07.04 Friday 09:00

KENSAN is profound study

自動翻訳を使って、海外からホームページを閲覧している人もいるようです。
以前は、「けんさん」という言葉が、brainstorming(自由に思いつきを出し合う会議法)と訳されていました。
元々、「研鑽」には、このような意味はないと思います。
学問・技術・芸術など深奥を究めるという意味だと思います。
ヤマギシ会では、「けんさん」を「思い考えを出し合って話し合うこと」と捉えている人が多いようです。そういう人の中から「brainstorming」などという訳が出ているのではないかと思いました。
私達が用いている「研鑽コミュニティ」「研鑽ライフ」などの意味が訳し方によっては、まるで誤解されてしまうかもしれません。
現在は、「研鑽」という漢字のままで表示されました。
 ⇒ Yamagishism KensanScience
KENSAN is profound study(深奥を究める)
            という訳が適当ではないでしょうか。
KENSAN is not brainstorming
<< 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 >> total 66p
▲ page top