BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― アーカイブ: 2009/09 ――
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Category: < つれづれ > | 2009.09.27 Sunday 13:00

ヤマギシの村 あたふた

Category: < 研鑽の理 > | 2009.09.23 Wednesday 00:00

『研鑽』について書いています。

しばらく前から『研鑽』というタイトルで書き綴っている。
きっかけは、今年の春、韓国から Yさんが会いに来てくれた時のこと。
2009.03.12の記事参照
そこで彼から聞いた話では、韓国と日本とは20年ほど差があるような感じで、1980年代に民主化とか学生運動とか新たな社会を模索する動きがあり、そこでヤマギシが注目され社会活動や思想界に多くの影響を与えたらしい。
それも、一段落しているらしいが、社会思想を模索する情勢はまだまだあるそうで、彼はヤマギシズムのエキスを翻訳して出して行きたいとのこと。
その後、7月と8月に韓国へ行って、彼と話し合ってみて、そう遠くなく、ここで「研鑽セミナー」や「内観コース」を実現できそうだなと感じた。
そうなった時、体系だった思想として『研鑽』を知る機会にもしていきたいと思った。

『研鑽』について書き始めてみると、「考え方」というだけなら個々の精神面のことにとどまってしまう。
思想性ある一貫したイズムとして、出して行きたいと思った。
そうして、「KENSAN for the World revolution」というタイトルが浮かんだ。
 第1章.研鑽という考え方
 第2章.研鑽−−事実・実際はどうか
 第3章.研鑽−−本来・本質・本当はどうか
 第4章.研鑽−−正しきに戻す

最初、研鑽とは「キメつけなく本当はどうかと調べる」という定義で、3.までのつもりだったんだけど、どうしても、4.まで入れないと、思想とは言えないなーと、なってきた。
まだまだ途中で、読み返しても、拙いなぁ未熟だなぁと思うばかりですが、下手でもなんとか書いておきたいと思っています。
  ↓↓ 以下、目次です。

Category: < つれづれ > | 2009.09.11 Friday 09:00

自発的服従による組織

最近、研鑽科学研究所で、よく話題になる。
(8月9月の研鑽科学サロンのテーマにもなっている)
「自発的服従」・・・主体が自己の自律性を確信していながら、客観的には他者や制度に知らぬまに服従していること。
(自発的服従は、組織存立の基本的なメカニズムという説を唱える人もいる。)

まあ、飼い馴らされた愛国心みたいなものかな。
他からの強制ではなく自発的だから、服従しているという自覚がない。
自発的服従にも積極的なのと消極的なのがあるから、組織では積極的に服従している人が重宝がられ模範となり実権を握る。
自発的服従しているのを自発的意志でやっていると思い込んでいる状態。
青年の研鑽会を開催したことを大問題にしてる人がいるらしく「kazukiはクビ、大学部おとりつぶし」にまで話は及んでいる。その理由は「相談なしで勝手にやった」からとのこと。
でも、この理由は大ウソ。でも、大問題にしている人自体、自分の大ウソに気づかず、マジメに「相談なしで勝手にやった」を問題にしているらしい。アワレ・・・!!
本庁の寄り合いでも「相談なしで勝手にやった」ことについて、大マジメで物議しているよう。そういう論点(テーマ)にしてしまうと、事態を聞いた多くの人は、そのことで意見を言い合い、そのことの裁定をしようとする。
大問題にしている人は、自分が大問題にしている自分の本音すら見えない。
Yさん曰く 「いくら良いものでも入れてはダメなものはダメだ。」とか・・・この人は正直な方かな(韓国では相談なし独裁でやってるもんな・・・)


 天理教、大本教のように団体になってるものを宗教というが、そうでなしに各自信じてかえりみない、他を入れないもの、キメつけてこれだというものを宗教といえる。
 みんな一人一人にあるやろ。自分が自分に教えてるもの。そして人にこれが正しいよと云うもの、教えるものね。この宗教定義第一やっておくこと必要と思う。
(1960.8 第二回理念研より)

Category: < つれづれ > | 2009.09.03 Thursday 07:59

批判と悪感情

世に「批判」という行為は随分あるが、
果たして、「冷静な批判」というものがどれほどあるだろうかと思う。

人の行動を見たり、発言を聞いたりして、「自分の考えとは違う」「賛成できない」「おかしい」と思うから批判するのだろうが、
その様子を見てみると・・・、
自分の考えを通して、人の行動を見たり、発言を聞いたりして、見た瞬間(直後)、聞いた瞬間(直後)に、「えっ?」とか「なにっ?」という感情が出る。
それが既に悪感情で「癇に障る」(かんにさわる)というヤツだ。
その後で、相手の言動の非を突く批判を言う。
そして、聞く方は、その批判の内容に耳を傾けている。

この批判という行為を眺めてみると・・・、
先ず初めに、カチンと頭にきて、「気に入らない」「癪に障る」と言えば正直なんだけど、それではカッコ悪いから、その悪感情をカムフラージュして正当化するために、相手の非を突いたような、もっともらしい理由付けが批判という形になってるのだと思う。
テレビなどで、政治家や著名人と云われる人が、討論したり、他を批判する場面を見ても、内容はともあれ、その構造は殆ど同じではないかと思う。
批判そのものを問題にしているのではなく、批判は大いにすべきだと思うし、「あの人は批判的だ」などと、それだけで人を批判したりしないで、冷静な批判をし合いたいものです。
批判:(事に検討を加えて、判定・評価すること。⊃佑慮斉亜仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。
鈴鹿に来る前、来てからも、こちらが批判された例も数々あるが、「冷静な批判」というものにお目にかかった気がしない。
いくら隠そうとしても「気に入らない」「癪に障る」という悪感情が見え見えで、どれも、こちらのことが「よほど気に喰わないんだなぁ」と感じる批判ばかりです。
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