BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― アーカイブ: 2009/04 ――
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Category: < 人 間 理 > | 2009.04.29 Wednesday 22:00

自発的な「心のケア」を・・・

研鑽心理学センター設立に向けて

「人間の考え」「自分の考え」であることを理解しつつ、自分の頭の中にあるものについての自覚が進んでくると、「自分」というものについても、頭の中で捉えている「自分」よりも、自分の実際、自分の成り立ち、自分の中に形成されているものに関心が向き、焦点があたってくる。

人には、生まれ育つ間に形成された「考え方・観念」などがあると云えるが、
もっと広い意味でいうと、その人の「心理面・精神面」とも云えると思う。
一般的には、人の内面(心理面・精神面)というと、「欲求・意志・感情」などや「思い・考え・気持ち」のことと捉えがち。
しかし、これらは、心理面・精神面からのその時々の「現われ」、つまり、「一時的現象」だと思う。
このような日常の内面からの「現われ」の元には、その人の中に形成された「心」があり、それが、その時々の状況に反応して出ているのだと思う。

「人は自己を守り利得のために競争し合うもの」という人間観で営まれている資本主義社会に育ち、その人間観に染まった「心」が形成されていることによって、違和感なく利己的競争心で暮らしている。
決めたことを守ろうとする意志、人の意見に反応する自分の考え、お金が欲しいとする欲求、幅っている自分を恥ずかしく思う感情、厚かましい態度を見ての嫌な感情、・・・・・、凡ゆる「現われ」の元には、その人ならではの「心の状態」があり、そこから来る当然の「現われ」とも云えるだろう。

なぜ、そうするんだろう?、そう言うんだろう?、そう思うんだろう?、と問う前に、自分の(その人の)中に形成されている「心の状態」はどうなんだろう?、と焦点が当たると、自然、その「現われ」の由来が解明できると思う。

自分の(その人の)中に実際に存在する「心」を知ろうとすることだと思う。
巷でも「心の時代」とか「心を育てる」と唱えているが、実在する「心」を見届け掴もうとしていないなら、うわ言、空論にすぎないと思う。
「心」の問題は、その人の根幹に関わるもので、安易に触れることはできない。如何に周囲の人々の関心や協力があっても、先ず自分から心の状態を解明していこうとする意志がなければ、「心」を知ることはできないと思う。
果たして、自分の中に形成されている実在する「心」を知ろうとしているだろうか?
そこが無ければ、人の「心」を知ろうとしても、空想的な思いやりの域を出ないだろう。

普段は意識できない自分の「心」を知るために、「研鑚心理学センター」を大いに活用して、「心」のケアに役立てていきたいものだ。

Category: <山岸さんの声など> | 2009.04.27 Monday 09:00

私の倫理  私の社会倫理

山岸式養鶏会会報創刊号より    發信寄稿録の中から
同行愛農會の諸兄姉に   和歌山県海草郡紀井村小豆島 愛農會本部へ
 東北より九州に至る全国愛農会のよき指導者、推進会員諸兄姉千数百氏を向陽校にお迎えし、私の日頃抱懐している一端を述べさせて頂いたことを光栄に存ずるものであります。
 私は当日も申しました如く、古今を通じて最大の欲張りを持って任ずるものであります。またかくあらんことを欲するもので、人生ある限り、百万年の生命、無限の存在を確信し、日常茶飯事にも永遠に大きく生きん事を心するものであります。私は拙ない私の養鶏寸話を、一億円のお土産と、自ら勿体付けました。しかし決して誇張する意味でなく、現実、当座の一億円であって、種子一億円を持参し、これを各地方地方へお持ち帰り下さって、皆様方の尊い御手によって地に下ろし、御愛育願い、同心の方々に広く御分譲下さって、一粒万倍に、地上に花を咲かせ、穫って、もって実を心身の糧にして頂く事を念願するものであります。
 山岸会では母子系図を作成しています。親から受けたものをその子孫に与える。会への導きをされた人を親とし、その親の心になって子孫に伝える人を、その親の子としています。性別・年令・国籍・賢愚・学歴・地位・身分を問わず、親はいつまでもこの系図から消えず、子のまたない良き親となって頂いているのです。

 私の倫理「親は飽くまで子に資するもの」、枯木となって、朽ち果てるとも、子に尽くし、子孫の繁栄を希うものとしております。子は自己の延長である。この身は永久に絶えない。交代身が子で、しかも社会連鎖の形で子孫に自己が生きているのであり、子孫の繁栄・幸福は自己を全うすることであります。親は子に与えて、与えて、持てる限りのものをなお与え尽くして、子から親に対する報恩は決して求めない。唯願うことは、それをその子に、子は孫に与え、自己の欣悦の日常は子孫の欣悦に共通する繋がりを明示して居ります。

 私の社会倫理「自己より発し、自己に返る」、これは心理学的に証明出来ますが、また物質に結び付いた物質面から説明するに、実在数理で割り切ることが出来るのであります。私は本編では、永年職業としていた関係上、養鶏を取り上げておりますが、養鶏そのものは社会構成上実に微細な、取るに足らないように見える分子に過ぎませんが、この一事を引出しまして例えて試ましょう。
 暗夜に艫を漕ぐと申しましょうか。自分では善いことをしていると信じて渾身努力していることも、案外逆艫を漕いでいる場合があり、舵取りが悪いと目的の方向へ進まない事もありますし、方向を間違えて堂々廻りをして彼岸から遠ざかっていることもあります。
 養鶏に限らないわけで、何によってでも、彼岸に達すれば良いが、私達はその手段として養鶏を取り上げた場合も、目標を違えないよう、堂々廻りをしたり、額に汗して逆艫を漕ぐ愚かさは止めたいものです。目標、彼岸とは何か。愛農会の地上天国、私達の月界、字句は異っても意は帰一するもの、人間皆同行なるの所以です。この養鶏法も舟を進めるための艫でありまして、逆艫とならないよう心掛けたいものです。艫を揃えて、子孫と共に天国に楽園を造りましょう。
 

Category: < つれづれ > | 2009.04.20 Monday 08:00

研究所ってナニ?

「研鑽科学研究所って何の研究をしてるんですか?」
物づくりや商品の研究ではなくて、会社や暮らしが良くなる研究をしているんだよ。
「へぇ〜、会社や暮らしがよくなるって、例えば、どんな研究ですか?」
誰もが休みたい時に休める自由な会社とか、
命令されたり人の上下のない会社とか、
お金が多くある人も少ない人も豊かに安心して暮らせるとか、
「みんな、そうなったらいいなぁとは思うけど・・・」
誰もが願ってることが、なぜ実現できないんだろうね?
知らず知らずのうちに、そんなの無理だと諦めてる・・・。
「諦めてるつもりはないけれど・・・・、なんとかく、社会はそういうもの・・・みたいに思ってる・・・」
そうなんだ!そこが重要なポイントでね。社会はそういうもの・・・と思っているのを『どうなってるのかな?』『なんでかな?』と検べていくんだよ。
「おっ出ました!科学哲学するんですね。」
会社のこと、暮らしのこと、社会のこと、その中で生きている自分のこと、等々、先ず『どうなってるのかな?』『なんでかな?』と検べていくことからだね。
そうして、そこから、何を願っているのかな?それは実現できないものなのかな?、どうしたら実現するのかな?、と実際に試しながら研究しているんだ。
コミュニティやカンパニーは、そのための『試験の場』でもあるんだよ。

Category: < つれづれ > | 2009.04.17 Friday 13:00

研鑽って ナニ?

「研鑽って、どういうことですか?」
研鑽は、別の言葉だと、科学哲学 と言ってもいいかな。
「科学?哲学? って、なんだか難しそう〜」
言葉は難しそうだけど、やることはシンプルで、易しく言うと、
科学は『どうなってるのかな?』、哲学は『なんでかな?』と、いつもクエスチョンをもって検べることかな。
「科学は『どうなってるのかな?』で、哲学は『なんでかな?』というクエスチョンですか???  うーん、簡単そうにも聞こえるけど・・・、これこそクエスチョンだー。」
例えば、楽器のピアノ。ピアノは『どうなってるのかな?』というのは科学。それから、ピアノがある、人間がピアノというものを作った、それは『なんでかな?』というのが哲学。
「ピアノがあるのは『なんでかな?』、ピアノを作ったのは『なんでかな?』
そんなの分からんなぁ〜」

分からなくてもいいんだ。『どうなってるのかな?』『なんでかな?』というクエスチョンが自分の中にあるということが研鑽の始まりだから。
「答えよりもクエスチョンが大切なんですねぇ。」

人が「生きている」ということを『どうなってるのかな?』と検べるのが科学で、『なんでかな?』と検べるのが哲学と思うよ。
「お金」とか「規則」とか「学校」なども、『どうなってるのかな?』と科学してみる、「なんでかな?」と哲学してみる。
「・・・うーん、だんだん難しくなってきた〜」

ピアノや自動車について『どうなってるのかな?』と科学するのは分かり易いかな。『なんでかな?』と哲学するのは、馴れないと難しく感じるかな。
でも『なんでかな?』と思うことってあるよね。
「規則を守る」とか「迷惑をかけない」とかだと、『なんでかな?』と考え易いよね。これも哲学だよ。
でも、「規則を守る」「迷惑をかけない」のは『どうなってるのかな?』と科学する方が、馴れないと分かりにくいかもね。

「『どうなってるのかな?』と検べて「こうなってる」と分かることがあるし、『なんでかな?』と検べて「こうだから」と分かることもあると思うけど・・・。」
例えば、自動車は、ガソリンを燃やしてその力でエンジンを動かして・・・「こうなってるんだ」と分かったように思っても、ガソリンを燃やすって『どうなってるのかな?』エンジンを動かすって『どうなってるのかな?』と、分からないことだらけだと思うよ。
学校があるのは『なんでかな?』、規則があるのは『なんでかな?』と検べて「こうだから」と分かったと思っても、じゃあそれは『なんでかな?』と尋ねてみると、どこまでもキリがなくて、誰も答えられない・・・。

「小さな子どもが「なんで?」「なんで?」と、聞いてくると、しつこく感じて、ウルサイ!そういうものナンダ! と言ってしまうのは・・・、そうか・・・答えられないのか・・・。」
そうだね、そういう意味では、小さな子どもが一番の哲学者かもね。
「へぇーっ? 小さな哲学者???」
おとなになるにつれて、分かったと思うことが多くなって、「なんでかな?」と思うことが少なくなって、哲学しなくなっちゃうんだろうね。
「そんなことされたら腹が立つのは当り前だろ」としてしまわないで、腹が立つというのは「どうなってるのかな?」「なんでかな?」と、どこまでも、どこまでも、クエスチョンがあると面白いだろうネ。
まだまだ、続きがあるけれど、今日は、ここまで。

Category: < 具現方式 > | 2009.04.16 Thursday 12:00

「研鑽」を核にした「会」の発足を

1953年に山岸会が誕生して56年を経て、
2009年、その本題である「研鑽」を核にした「会」、
ヤマギシ会とは異なる、新たな「会」の発足を提案しています。

「研鑽」とは「学問や技術などを深く究める」という意味であり、さらに、ヤマギシズムの「研鑽」は本来、キメツケなく本当はどうか、事実・実際はどうか、と検べるという意味に用いています。
しかし、長年に渡って、ヤマギシでは、「意見を出し合って話し合う」ことや「みんなで相談して事を決める」こと等を研鑽と呼んでいるようです。
「研鑽でやりましょう」「研鑽した」「研鑽されたことをやる」など、「研鑽」の持つ意味とは随分かけ離れた用い方が蔓延し横行しています。
そのために、「研鑽」という言葉について、ヤマギシ独特のイメージができ、老若男女を問わず、特に若い世代にも「研鑽」という言葉を嫌う人がたくさんいるのが実情です。
その失敗を鑑みて、心ある人たちにより「研鑽」の本来の意味を理解し、「研鑽」をベースに活動する結束の輪が広がり、新たな「会」発足へと伸展してきました。

本当を探究し 実現をはかる 活動ネットワーク

研鑽を知り、知的に明るく、人や社会について検べ考え、共により良い暮らし・人生・社会にしていこうとする人達が、世界各地で、各自の持ち場・立ち場から、研鑽を実践し、ネットワークを広げる活動をしています。

会員(2009年現在)
日本東京 神奈川 千葉 栃木 福島 宮城 静岡 愛知 岐阜 三重 石川 京都 大阪 兵庫 島根 愛媛 鹿児島 ほか ・ 韓国 ・ ブラジル ・ スイス など

活動ネットワーク(2009年現在)
 研鑽科学研究所 ・ 研鑽ライフセンター ・ 研鑽心理学センター
 鈴鹿研鑽コミュニティ ・ 研鑽生活体
 as one company ・ 出版広報部 その他
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