BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― アーカイブ: 2008/08 ――
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Category: < つれづれ > | 2008.08.26 Tuesday 22:00

山岸式(研鑽) か 春日豊里式(・・・) か

心の手を結ぶ、それが実顕地の充実。
着実ないき方のできる人が、実顕地の実権を握るようにする。


僕のお気に入りです。 (実権という言葉はイマイチだけど云わんとするところね)
いつも、心してるというか、心の中にあるというか・・・。


急所を知らない人が、急所を外した機構や運営やってて、実顕地になる訳がない。
(なぜ 春日豊里式を後生大事にして、あんなに広げちゃったんだろうねぇ?)
組織維持の為には個人の意志を妨げる必要があるのを当然としている
どんな意志も決して妨げる必要のない組織とは? かつてない社会を知ろうとする。
それには、人の核心、社会の核心、つまり急所を知ることから。
急所を外さなければ、ここをやろうとする人の結束で、普遍性ある揺るがない実態へとグングン近づいていくなぁ、と実感しています。
(規模や見映えじゃなくてね)
社会機構・運営の急所、実顕地の急所、知ろうとする人の寄り場、拠り所にしたいなぁ・・・。


無現象をそのままにしておいて、いくら形(現象界)をととのえても、
形から入ったものは無現象界が元だと気付かない限り、形が崩れようとしたとき建てなおし出来ない。
何をやるにも、もとが大事。
底に気づかない、砂上の楼閣。

出来た、深まったと観る焦点をどこに置くか?
本当の一体が確立する方に置いてゆかないと。
無辺境の囲いのない人を創る方向。

和を保つ為には現象界が大切やと、現象面を調えてゆこうとする、共同化の線。
現象面がどうであろうと、もとが一体。
日常の総ての現われは、もとの心の現れ。
そのもとの方を正してゆこう。

内部機構をつくる上にも、元の心の面、仲良しになるための三人制にしても、一人で偉い人になる専制者は嫌われる。
よろこんでくれるとしても、物欲の人が喜ぶのやったら、ええかげんなもの。
蒔いた通りの種が生える、簡単なこと。

(1961.3 理念研)

Category: < つれづれ > | 2008.08.17 Sunday 15:00

ヤマギシの村 についての見解を少々

なぜ、今のような生活形態や運営方法にしているのか、その理由や根拠を誰も知らないと思う。

ヤマギシを知り、その組織に加入した時、既にそのような生活形態や運営方法でやられていたから、それを行なうことがヤマギシズムだとしてやっている。
世間一般の生活形態とは大きく異なる為に、また、無所有一体を理念だとしてヤマギシズムを掲げている為に、今ある生活形態や運営方法が、ヤマギシズムを現わしたものだと思っている人が多い。
「ヤマギシズム生活実顕地」について、それを調べるすべもなく、「これが実顕地だ」「こうすることがヤマギシズム生活だ」というところから入いって来ている人ばかりだと思う。

「実顕地」と名づけられているものを「実顕地」だとして、40年にも渡って行なわれいる。
40年前にはあったであろうプロジェクトの目標や計画や方法など、今になっては誰も知る由もない。
現状は、設計図も仕様書もない老朽化したプラントの維持・保守・補修 に躍起になっているようなものだろう。
不自由と窮屈さが介在する、気を使いながらの人間関係、管理統制の要る運営で、自身の実態にメスを入れようともせず、意識だけは ヤマギシズム をやっているつもり。
ヤマギシズムとは何か、という原点に立って、それを生活や運営に現わしていこうとするのが筋道だと思うが、果たして、今のヤマギシに、そのような人がいるだろうか?。
ヤマギシズムをなおざりにして、旧態依然とした「組織と生活形態」が、存続しているにすぎない。

Category: < つれづれ > | 2008.08.03 Sunday 08:55

研鑽と本質

キメツケのない考え方をしようと思っても出来るものじゃない。
本質的なものに重点をおこうと思っても出来るものじゃない。
どうやって出来るようにしていくか。そこが肝心で、そのための研究・実験。

・キメツケがなさそうに見えても、事柄・現象面のことばかり検討しているということがある。(実は狭く硬い視野に気づかない)
・本質的に行こうとしていても、分かろう分かろうとする断定傾向の人がいる。(実は本質より自分の考え重視)
・・・どちらも研鑽の方向へ行かない例。

「自分を知るための研鑽会」と「人生を知るための研鑽会」は「キメツケのない考え方」と「本質的なものに重点をおく」が出来るようになるためのもの。
どちらか一方が出来るようになるということはないと思う。
  ○ キメツケがないとは、本質指向ということ
  ○ 本質指向ということは、キメツケがないということ

Category: < つれづれ > | 2008.08.02 Saturday 14:00

シンプルに・・・

人間問題も、社会問題も、産業活動も、それをなす原理があるだろう。
現状の人間や社会や産業活動から、どうすべきかという発想になり易いけど、やはり原理を知ろうとすることが先決問題と思う。
人間関係、組織運営など複雑化した現状からの発想では、進んだとしても50歩100歩、いいとこ知れてると思う。軌道修正か改良程度のもの。できそうなものを目指して自分を満足さそうとするか。

何をやるについても、農業の理とか、家庭の理とか、子育ての理とか、経営の理とか、あると思う。
できるか、できないか、分からないが、原理や本質を知ろうとして、そこからのものでない限り、揺ぎない本ものの実現はあり得ない。その可能性に架ける人たちによって、夢を描き向上進歩を策していこう。
理を知ろうとして、それを実践するシンプルな営みによって・・・。

Category: < 研鑽の理 > | 2008.08.01 Friday 20:00

研鑽科学(ヤマギシズム)について

【研鑽科学という表現】
40年以上に渡って、日本では「ヤマギシズム」という言葉が、団体固有の名称として用いられてきた為に、この言葉を用いると誤解が生じ易く、あえて「ヤマギシズム」という言葉を避けて、「研鑽科学」という言葉を用いています。
ヤマギシの組織が公表している資料やホームページには、「ヤマギシズム」について言及した解説は殆どなく、「無所有一体の生き方」などという表現がされてある。
無所有一体共用生活が「ヤマギシズム」ではない。
仲良い楽しい幸福社会を作ろうとする会や活動が「ヤマギシズム」ではない。
「ヤマギシズム」はイズムであり、考え方である。
「ヤマギシズム」からくる無所有一体共用の仲良い楽しい幸福社会というものはあるだろうが、
無所有一体共用の仲良い楽しい幸福社会が「ヤマギシズム」ではない。
無所有とか一体などの表現は古来からあるもので、理念でもないし、ヤマギシズムを表す言葉でもない。
敢えて云うなら、ヤマギシズムそのものが理念であり、研鑽が理念である。
「無所有一体社会が宗教化したら大変」(1961.10 第5回理念研鑽会)
「ヤマギシズムは言葉でも文字でもなく、現象でもなく、一つの考え方に過ぎないもので、・・・」(1960.4 ヤマギシズムと山岸会)
「ヤマギシズム」と呼ぼうと呼ぶまいと、中身が「ヤマギシズム」かどうか、つまり「研鑽」があるか、どうか。



【偏らない固定のない科学哲学、即ち研鑽】
研鑽という言葉は、学問・技術・芸術など専門的に深く究めるという意味に用いられる。
私たちが用いている広い意味での研鑽科学は、特定の人ではなく、人間なら誰にも当てはまると思われることで、研鑽(深く究める)ということを平易に云うと、安易に分かったとか出来たとか結論づけない営みとも言える。
日常の見る・聞くという行為でも、見たから聞いたから分かった知ったと結論づけないで、事実・実際・真相はどうなんだろうという考え方を研鑽と呼んでいる。
例えば、薬を飲んで病気が治ったり、拝んで病気が治ったりすると、
「薬を飲んだからだ、拝んだからだ」となる。
「物が落下するのを見て重力の作用だ」となる。
「形態を見て、無所有だ、一体だ、ヤマギシズムだ、研鑽会だ」となる。
これらは現象面を捉えて、そのものを捉えているつもりになっている例と云えるだろう。

このことを、もう少し突っ込んで見てみると、現状では「こんなことを言った人」「あんな行為をした人」と、発言や行動を捉えて、人を判断していることが多々あるだろう。犯罪と云われる行為をした人は悪い人とされるし、皆が喜ぶような行為をする人は良い人とされ易い。

研鑽によると、人の行為についても、現象面の目に見える言動よりも、その言動に至るその人の心の状態や考え方などに重点をおくようになる。
人の言動や凡ゆる事象について、人間の持つ感覚器官で捉えたものをベースにして、その背景や底にある内面・真相・原理を知ろうとする知能の働きが、科学であり哲学だと思う。



【研鑽の実現、本質的なものに重点をおく】
社会組織についても、現在までの社会通念では、規範とか秩序を重んじ、規律を守るとか、真面目に働くとか、そのような現象面のこと(行為)をとても重要視している。
人間教育・躾け・道徳などは、心を大切にしているようだが、やはりその結果、良い行為をするかどうか、行為が悪ければ効果がないと見なす。
良い行為をするのが良い人間で、心や考えが良いと見ている。
逆に、悪い行為をするのは、悪い人間で、心や考えが悪いと見なされる。
正しい心や考えを教育して、罰則によって悪い行為をなくせば、誰もが義務や責任、規則や契約を守り、物が豊富で便利になり、人の幸福や社会の平和が実現するかのように思われているようだ。
ヤマギシズムを名乗っていても、
私有財産を持たないとか、独断独走しないとか、皆で相談して決める等することが、ヤマギシズムを現しているかのように思い易く、そういったことに力を入れるようになる。
現に、どうすることが「ヤマギシズム」なのか、分からなくなっていると思う。
故に、今までやってきた形態を守り踏襲することで、ヤマギシズムを実践しているかのように、今日の活動に意義を付けたがるのだろう。

歴史的事実や社会通念によって「人間とはこういうものだ」との観念が強いために、人間や社会を本質的に見ようとする観点が育たない。現状の人間や社会組織をどうしたらよいかという発想から抜け出せない。

凡ゆる動植物は、正に自然体でそのものらしく脈々と生き続けている。
何故、人間には努力や頑張り、我慢や辛抱、規律や統制が要るのだろう。それは人間の本分である知性に逆行するものと思う。
自然体でそのものらしく生きる人間本来の姿を知ろうとしていないのではないか。
ヤマギシズムは「人間とは、社会とは」と、その本質を科学哲学する思想である。
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