BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― アーカイブ: 2008/07 ――
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Category: マイプロフィール | 2008.07.31 Thursday 21:00

ライフワーク

人間と社会に関する問題をやってきた

そして、人間にとっての本当の幸福と、人間らしい本当の社会のあり方と実現方法がハッキリしてきた。
それを実験・実現するために鈴鹿に来たともいえる。

その内容を説明するために解説文などを書いて、公開しているが、
とにかく書いたものを読んだくらいでは、「そんなこと実現できる訳がない」と相手にされないから、
規模は小さくても、実際に実現されたものを見れば、誰にも分かり易いと思って、それをやっている。

説明といっても難しい内容ではないので、先入観念を入れずに理解しようとして読めば、誰でも分かると思うので、10年先20年先のために、書き貯めて、遺しておこうと思う。

Category: < 一体の理 > | 2008.07.12 Saturday 17:00

共に暮らす 2

見ず知らずの子どもが、「そこに大きなヘビがいたよ〜!」と話しかけてきた。
こういう時の子どもの中はどんなだろう。
大人にもあるね。
例えば、大きな事故を目撃したら、見知らぬ人にでも、「そこで大きな事故があったんですよ」と、つい話しかけてしまうとか・・・。
でも、人によっては、そういう気持ちが湧いても、見知らぬ人だと、平常顔を装い抑えてしまう作用が働く場合もある。何故だろう?


子ども時代を想うと、学校は友だちとの暮らしの場であったような気がする。小学校の頃はこれが更に顕著で、友達と遊ぶために学校へ行ってたような気がする。
中学・高校・学生時代の友とは、何でも喋り、きついことや嫌なことも言い合ったり、腹を立てて喧嘩したり、親兄弟とも一味違った親しい仲にもなる。

大人になるにつれ、それぞれの進路に別れ疎遠になって、よそよそしい関係になっていく。
就職しても、その職場環境やそこにいる人によって、同僚との暮らしの場になっている人もいる。(人生の豊かさに大きく影響すると思う)
大人になっても長屋の八っつぁん熊さんのように不審や警戒や疑いもなく開けっ広げで暮らせる人もいる。
犬や猫もそこの家や家族に馴染んでしまうと、獣の本性を忘れたのではないかと思うくらい無防備で大の字になって寝たりする。


「共に暮す」という言葉の響きから「同居」をイメージされそうだが、意義や使命で寄って、優劣感上下感の中で遠慮・気兼ねの要る暮らしは、人と共に暮しているとは云えないだろう。
「人と」ではなく、何かと暮している・・・?
施設や環境を整えて、一つの地に寄って住めば、果たして人は仲良く安心して共に暮らせるのだろうか?

周囲の人に不審や疑いの目が有れば、安心して共に暮らせない。
周囲の人に無くても自身の中に不審や疑いが有ると、共に暮らせない。


幼い子どもには不審とか疑うという気持ちがない。人や自分を縛るということもない。
そういう子どもに対する方にも、不審とか疑うとか縛るという気持ちは生じない。
こういうの「相関関係」っていうのかな。「社会の成り立ち」もこの辺りにありそうな気がする。
人の根底をなす「もののあわれ」というものかな・・・

人と共に暮らせる人の豊かさを想い、その中で人と共に暮らす自分。
人と共に明け暮れる毎日の連続かな。

Category: < 一体の理 > | 2008.07.09 Wednesday 13:00

共に暮らす 1

10代のある時期から、この先、大人になって社会に出て、就職して、結婚して、子どもができて、家庭を作って、家族を養って・・・、
そんなこと、やってもなぁー、と悶々と悩んでいることがあった。

ふとしたキッカケで、ヤマギシズムというものに出会った。
考え方・主義・思想で、この生き方に惹かれたという面も強いが、
今、想えば、自分を一番大きく動かしたのは、
やはり、「共に暮らしている」という実態だと思う。
 (昭和40年代に触れた春日山と豊里)
そこは、何かをやるという目的で集まって来ていることは確かだが、それだけではない、次元の違うような何かを感じた。
何かをやっても何もやらなくても、「共に暮らしている」という感じかな。
子どもがいる、老人がいる、飲んだくれている人がいる、結婚や出産がある・・・・・・理屈に無頓着で講釈しない大半の住み人たち。


しかし、その後は、「共に暮らす」という実態についての研鑽もなく、他のことに多くの歳月とエネルギーを費やしてきたと思う。
そして、ここに来て初めて「共に暮らす」実態の研鑽が始まったと思う。
近所に住んで職場や研鑽会で顔を合わせていても、共に暮らしている人と、そうでない人がある。

一体(無所有)と呼んでもいいが、そんな言葉も理屈も要らない、それより前に、そのままで共に暮らしている人。
人は生まれながらにして、親兄弟など「人と共に暮す」実態を身をもって知っている筈、成長につれて自分を知り多くの人を知り、人と共に暮らす広大な世界に住み得るもので、それがその人の人生を如何に豊かにするものか言うまでもない。モノカネの富みなど比ではない。


しかし、成長過程で多くの不審感 警戒心 猜疑心などを身につけ、共に暮せなくなっている。
元来、人はひとりでは寂しい。友を求め、家庭を欲するのも、幼い頃に共に暮らした感覚からだろうか。少ない家族で小さな城に個々に貯えて、わざわざ狭く小さく生涯を送ろうとしているかのようだ。
知らず知らずのうちに身についた観念で「個々で暮らす」のがベースになり、その上で都合によって「一緒にやろう」という意識が生まれる。

「一緒にやろう」という後付け意識と、元から「共に暮らしている」のとは全然別ものと思う。

「共に暮そう」と、意識でそう思うのでなく、何の囲いも持たない元来の「共に暮らす人」に立ち還ることだと思う。そうはいっても現状では、周囲の気風や環境に依るところが大きいから、やはり「共に暮らせる人」が「共に暮らしている」実態が大きいと思う。
最も安全な、誰にも盗られぬ、子孫永久に栄える、世界幸福株に乗り換えているのに、何が貧乏しているのでしょうか。(山岸会養鶏法)
何処かの一角から、後で度々改修しなくてよい立派な道路と、交通整理係も要らない道標を創り、乗り物も用意し、これならいけると、誰でも共鳴して協力されるキッカケを、・・・(ヤマギシズム社会の実態)
「人と人が境なく共に暮らす」誰にも解り易い実態を・・・

Category: < つれづれ > | 2008.07.04 Friday 09:00

KENSAN is profound study

自動翻訳を使って、海外からホームページを閲覧している人もいるようです。
以前は、「けんさん」という言葉が、brainstorming(自由に思いつきを出し合う会議法)と訳されていました。
元々、「研鑽」には、このような意味はないと思います。
学問・技術・芸術など深奥を究めるという意味だと思います。
ヤマギシ会では、「けんさん」を「思い考えを出し合って話し合うこと」と捉えている人が多いようです。そういう人の中から「brainstorming」などという訳が出ているのではないかと思いました。
私達が用いている「研鑽コミュニティ」「研鑽ライフ」などの意味が訳し方によっては、まるで誤解されてしまうかもしれません。
現在は、「研鑽」という漢字のままで表示されました。
 ⇒ Yamagishism KensanScience
KENSAN is profound study(深奥を究める)
            という訳が適当ではないでしょうか。
KENSAN is not brainstorming
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