BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― アーカイブ: 2007/12 ――
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Category: マイプロフィール | 2007.12.31 Monday 23:55

2007年 歳の瀬に

研究所の面々、顔を見合わせ、「丸7年だねぇー」
「ここで7年やってきたということだね」
「まだ7年か、というのもあるね」
「それ以前の蓄積があっての、この7年でもあるな」
10月に K さんが来てくれたことで、1999年11月から、
鈴鹿が始まる 2000年11月までの経過をまとめて話すことができた。

2001年
2002年

2004年
2005年

2006年

2007年

活動の志が結集「一つの社会」実験 ⇒ 研鑽の実現が急務
人間性復帰・幸福実現のための研鑽制度が社会機構として必要との観点から合宿形式での研鑽会が始まる。
人間社会科学研究所 発足
試行錯誤を繰り返しながら、現在の「自分を知るための研鑽会」の原型ができ、実動し始める。
人間性養成に重点をおいた社会組織・機構・運営・制度に焦点があたる。「研鑽社会化活動」
「人間性の解明」から・・・「研鑽社会現象」へ

人間らしく幸福に生きる・・・だれもが望むだろう
 人間らしく幸福に生きる人が増えれば、自然、社会は良くなるだろう
人間らしく幸福に生きる⇒⇒⇒正鵠を射る 核心をとらえる
                それは、どういうことか・・・解明
                どうしたら、そうなれるか・・・方法
人間らしく幸福に生きる
 これを最優先・最重点にできるか、或いは二の次・三の次・後回しにするか
 これを一番大事にしたいけど、それに専念できない今の世
 これを実現するには、先ず、これを最優先・最重点にする社会と人の環境、それと勿論、本人の意志
人間らしく幸福に生きられるように成るための社会
 (これを最優先・最重点においた社会・機構・制度・運営)
  ⇒⇒⇒人間らしく成長し合える社会

実践の書 人間の知能 にある「心理的方面の解決」「社会構成の真髄」という課題に迫ることになる。
前にも書いたけど・・・、
ヤマギシズムの真骨頂は、世界を革命する社会実現にあり。
そして、山岸巳代蔵氏の本領は、その具現方式にあると思います。

人類幸福は精神面のみに非ず、むろん物や金でもない。
人間の幸福には、幸福社会が要る。
幸福社会には、幸福な人間が要る。
じゃあ、いつまでたっても実現できないと思う・・・?

幸福社会を実現しながら、人の幸福を実現していく具現方式
 ・幸福社会が実現するにつれて、人の幸福が実現する。
 ・人の幸福が実現するにつれて、幸福社会が実現する。
このような実践・実験を、このような規模でやっているところ他にないと思う。
手前味噌かな?⇒⇒⇒Ymagishism My Life 2007

2008年 理論と方法についての研究と実験の内容を解説する機会を設けたいと思っています。

Category: < つれづれ > | 2007.12.21 Friday 22:00

共にやり得る人

自分の意に沿わないと、ひっかかる人は、人と共にやることができない。
ひっかかるのは不愉快だから、人の中へ入らないようにするだろう。
ある程度の距離をおくスタンスをとるだろう。

自分の意に沿うことならやる。自分の意に沿う人とならやる。・・・というのは危ないもので、
意に沿わなくなったらどうか、容易に想像がつく。火を見るよりも明らか。

研鑽でやるとか、よく検討するとか、熟慮・熟考すると言っても、それは言い訳で、要は自分の意に沿うようにやりたいのだろう。
正義感の強い人によくある例で、正しくあろうとして、間違いだと思うことを正そうとする。
しかし、そこには、「間違い」と思うのも、「正しい」と思うのも、自分の考えだとの自覚がない。
「間違いだ」とか「正しい」とか言い切れないのに、間違いと思うことを拒否する。つまり、ひっかかる。ひっかかって気持ちが離れる、そして、離れているという自覚もない。
「人と共に」を勘違いして、人を「自分と共に」やらせようとする。自分が人と共にやろうとしていないという自覚もない。
建て前では「人と共に」と言っていても、自分の考えで、裁きを介在させていては、心底「人と共に」やれる筈もない。

自分の意に沿う沿わないに関わらず、自分の意見も考えも入れないで「人と共にやり得る人」になってこそ、そこから初めて、零位・一体・愛和・徹底研鑚が始まる。
揺るがない社会が実現するということは、
揺るがない人の繋がり結束が実現するということ。
「そういう人の存在」=「そういう社会の実在」

さて、自分は「人と共に」やれるか、どうか。
「人と共に」を指向するなら、自分から進んで、人と共にやろうとしてやってみることだと思う。
それが「自分を知る」近道だと思う。

Category: < つれづれ > | 2007.12.20 Thursday 20:00

「知る」 を 知る

どうしたら、あんな事ができるのだろう? と思うときは「自分にはできない」という自覚がある。
しかし、自分がやったこともない、自分がやってもいない事について、無意識・無自覚に、「自分はできる」として、言っていることがある。
これは、仲々自覚しづらいと思う。
選手のプレー、監督の采配、政治決裁、経営判断の他、身近な人のやり方・手の打ち方などなど、批評したり批判する場合。
「じゃあ、自分はやれるのか?」と自問してみたらよいと思う。

泳ぎ方を聞けば、乗り方を読めば、使い方を見れば、「自分はやり方が分かる」「自分にもできる」となっている。「無自覚」
一体生活とか、研鑽生活とか、研鑽経営・研鑽運営とか、一つでやる、職場づくり、社会づくり、等々・・・聞いたり読んだりして頭で分かろうとする。
そうする元には、頭で分かれば、「自分はできる」という自信があるのだと思う。だから、先ず、分かろう、分かろうとする。
「分かればできる」という自信があるから。

「頭で分かる」ということを「知る」ことと勘違いしている。
研鑽会に何度も参加しても「頭で分かろう」としている限り、「知る」ことはできないと思う。
全然、分からなくていい、ただそのことを知ればいい、すぐにそのことを分かろうとする。よほど自分の頭に自信があるのだろう。

見た、聞いた、こうだった、こう思った、
そして、記憶を駆使して、予測、推測、憶測する程度のもの
自分はどれほど知っているのか、分かっていると言えるのか。


(S氏の前渉行程論1972年より抜粋)
・・・・・「知る」ということを別の角度から知る必要があると思います。
 「知り過ぎ」ということが言われますが、知るということに過ぎるということがあるかということなのですが、過ぎるということがないにしてもこれはやはり知るということにも順序や条件が必要であり、その間「知らない方がよい」ということも考えられるのです。
 人間、意識的にことを行うと、異なった結果が出て来たり成熟しないことがしばしばあったりして、その理由や目的を「言わねばわからない」「言えば出来ない」という事柄があり、「言ってもらえばわかる」「知らねば行えない」と考えている人にどのように及ぼしていくかということで困るのです。どのように仕組まれているかという仕組みの内容を知ってためになる人は、すでにその仕組みの中でそのような生活をしている人か、深く学術的に究明される人に限られます。深い内容のあるものには表面的評論的知識は、当人及び周囲にとって為にならないと思えるのです。

Category: < つれづれ > | 2007.12.14 Friday 01:00

実行力

どれほどの実行力があるか 実行力がある分 実現できていく。
ここには、実行力のある人が、たくさんいる。
それによって、実態が進んでいると思う。

「繋がりが大事だ」「ひとと共に」「物や金じゃない」「本当の幸福」等 どんなに力説していても、その人の生活行動にその人の優先順位や行動方向が現れてしまうから、これは隠せないし、言い訳もできない。

「実行力」と「実行」は同じではないと思う。
「実行」ではなく「実行力」があるか、どうか。

    繋がりを知ると、  自分を守らなくてよくなる
    ひとと共にを念えば、  人目を気にして怖れ怯むことがなくなる
    自分の成り立ちを知ると、  不平・不満・不足感がなくなる
    物や金じゃないとなれば、  結果や評価に動じなくなる
    誰のものでもないと知れば、  減ったり無くなったりの不安・心配がなくなる
    事実・実際に関心が向くと、  固定・停滞・キメツケが続々発見される
    本当の幸福を指向すると、  一時的な満足感や解放感を追わなくなる

まだ、まだ、あげれば、切りがないが、これらの一つ一つが、実は、おそろしい程の実行力になることは、おおかたの人は察しがつくと思う。
 (我のない人の存在は、我のある人にとって最も恐るべきもの)
こういうものをなおざりにして実行しようとしても無理と思う。
実行力とは、やる気や気負いや勢いではない。
何か、やろうと考えても実行力が伴わないとできない。

研鑚によって、自分が観えてくる。
研鑚によって、余分な観念が外れてくる。
研鑚によって、その人の内から、どんどん実行力が出てくる。
研鑚によって、どんどん実態が進んでいく。
研鑚コミュニティは、実行力の結晶。

Category: < つれづれ > | 2007.12.08 Saturday 00:50

経営とか 運営について

自分が見たり聞いたりして、自分なりに捉えたことを「事実だ」としている人は、「自分が見ている」「自分が聞いている」「自分が考えている」という基盤が欠落していると思う。

「自分が見ている」「自分が聞いている」「自分が考えている」という人は「頑固」になりようがない。
「自分が見ているんじゃない」「自分が聞いているんじゃない」「自分が考えているんじゃない」「事実がこうなんだ」とする「頑固さ」。


そういう自分の思い込みで暮らしても、人と接触少なく他に迷惑をかけなければ、それでもかまわないかもしれないが、・・・

「自分が見ている」「自分が聞いている」「自分が考えている」という自覚のない人は、会社や職場や組織の「経営や運営」に携わっては駄目だと思う。

経営や運営に携わる人は、「自分自身の研鑽態度と自覚の養成」を最優先にすべきだし、そうしない経営者・運営者は、周囲からも厳しく批判したらいいと思う。
研鑚社会は、研鑚経営・研鑚運営の社会だし、そこを怠る者は、経営や運営に携わる資格なし。


こういうことって、今までにも何回も言ってきたつもりなんだけどなぁ。
本当の人間にならないと、本当の仕事も本当の社会もできないし、
研鑚する人にならなかったら、研鑚経営も研鑽社会もできないし、
そんなこと、分かりすぎるくらい当たり前の簡単な理なんだけどね。
人をそうするのは難しいけど、自分が成ろうとすることだからね。
先ず、自分が本当の人間、研鑚する人に成ろうとすること。


知識や経験で、経営や運営をやろうとしている人は駄目だな。
先ず、自分が「自覚ある人・研鑚態度の人」に育とうとする人、それを最優先にする人で、この社会のこの会社の経営・運営をやりたいな。

録音を聞くには、文章をクリックして下さい。
 ↓ 山岸さんの声の抜粋です。(1961.4.2 名古屋にて)
世界中一つで囲いのない仲の良い社会をつくる、これが先決だと、それなれば、それなれば、お約束しておいた「ヤマギシズム社会」即ち世界を一つで仲良く、この今いった、そういう社会に於いてこそ使いこなせる「ヤマギシズム社会式養鶏法」を出した、使ってもらったら結構だ、こんなところまできたわけなんですね。
 世界中の永遠の幸せのために、本当の幸せというのはそういうものだと思うんですが、そのために鶏を飼うんだ、或いは鶏は飼わなくても、そういう社会をつくることが先だ、まず自分がそういう人になって、そういう人がだんだんと、同じ気持の人が寄っていって社会をつくる。
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