BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― アーカイブ: 2007/08 ――
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Category: < 世界革命 > | 2007.08.26 Sunday 07:00

研鑽ライフホームの実態

1.研 鑽 ラ イ フ ホ ー ム 概 要
<真実の世界> Ⅰ
 各々真実の自分を知り、それぞれが真実の生き方の出来る社会
<昼の世界> Ⅱ
 枝葉・末節・表層のみに捉われないで、根源本質的なものに重点をおき、全体総てを明るい真昼の状態にします。
 政治・経済・社会・家庭等人類のあり方凡てに亘り、現状その侭で陽的に、愉快に、案外容易に、恰も暁に陽光が及ぶ が如く照らし出されて、明るい昼の世界が実現します。
<豊満な世界> Ⅲ
 物が泉の如く無限に出来て、水のように低い欲しい所へ自然に流れて来る仕掛けにし、心の面でも、安定と満足に暮らせる社会を目指しているのです。

2.研 鑽 ラ イ フ ホ ー ム 構 成
<研鑽会>
幸福な人生・快適な社会を実現するために、日々、研鑽会を行ないます。
 現状を指して「何故なのか」「どうするか」といく前に、自分・人・物事の事実・実際をよく観る研鑽。そして、「幸福な人生とは?」「快適な社会とは?」と、目指しているもの・本当の目的・真実を知る研鑽。

物事や人の言動についても、結果や表面的なことに捉われないで、本質的な中身に重点をおく研鑽。「実際はどうなのか」「実際はどうなのか」と、善し悪しもなく、解き明かしていくと、成り立ちがよく見えて、事態は変わらずとも、問題視は氷解し、展望が開け、現状その儘で、明るい爽やかな明日の姿が描けてくる。

そうして、自分のこと、人のこと、家族のこと、仕事のこと、家計のこと、過去のこと、将来のこと、人生万般について、話し合えるようになり、自ずと自他の隔てはなくなり、狭い自分の考えにとどまらない、多くの珍案・妙案・アイデアが寄り、和気藹々賑やかで暖かい気風みなぎり、人も物もお金も仕事も家庭も凡てが溶け合い通い合って、豊かに楽しく暮らせる社会が実現していくのです。
 毎日でも寄りたい研鑽会、日と時間を決めて、たやすく寄り会える場所で行ないます。

<メンバー>
 「研鑽ライフホームメンバー」とは、文字通り「研鑽人生の道」を歩む人、自らの「研鑽人生プラン」で暮らす人をさします。
 研鑽ライフは、一人でやってもよいのですが、周囲との違いのために消極的になったり、焦点がボケたりすることもあるので、同じ思いの「メンバー」がいつも寄って相談しながら暮らすことで、そうすることが研鑽ライフの大道となり、それぞれが道標となり、研鑽ライフというものが誰にも解り易いものとなります。
 自らが研鑽生活するということにとどまらず、「メンバー」が寄ることで、誰もが研鑽ライフに触れることができ、自分を知りながら、研鑽ライフの道に乗れるキッカケの役目を果たすことにもなります。

 しかし、研鑽ライフの軌道から横道にそれたり、研鑽ライフプランを見失いそうになった人は、一旦「メンバー」から外れることもあります。
 現「メンバー」は7名程だそうです。また、研修生コース・日常化レッスン等で「メンバー」候補続々誕生とのことです。
 「メンバー」は相互認証によって選ばれますが、どういう「メンバー」で研鑽ライフホームを構成しているか、研鑽ライフセンター会員などには、その都度公表していくという案は、いかがでしょう。

Kensan ・ Life ・ Home(2007.05.17)参照

Category: < 社 会 理 > | 2007.08.24 Friday 10:00

研鑽社会の経済機構の現状

<対象>
 研鑽による協力社会を自由意志で構成する人
<部門>
 研鑽ライフセンター会員、およびその家族
 研鑽ライフセンター
 研鑽科学研究所
 食料生産調達・物品流通・住居斡旋サポート等
 事業経営・資金運用
 生活経済・家計サポート・就職サポート
<生産手段>
 畑、水田、製麺、弁当製造、その他
<経営手段>
 as one company、エコサウンド、飲食店、その他
<生活手段>
 生産部門による生産物、その他生活品の流通や供給
 経営部門からの生活資金
 個々の就職先からの生活資金
 人の交流機会と連絡網、研鑽ライフサポート
<資産>
 研鑽ライフセンター研修所、マンション、等の取得物件
<資本>
 各自の意志により活用し得る知恵・経験・技術・身体・物資・資金など。
 無一文の同士から寄り合い、産み出していける経済力。
 財産を持たなくとも何の不安もない人たち。
 今日までの研鑽社会化活動の行蹟、凡て。


 物・金・頭・体・技・心・力・・・その人がやれることをやった分だけ、多くの人の暮らしに潤いがプラスされ、誰にも無理や負担がかからない相関連繋協力経済。
 一人一人の現状に即して、持ち味や能力を生かす、無理のない経済機構。

 財布を一つにするとか、しないとか等の個人の問題ではなく、現象的には個々の家計という形態をとっているが、独立した家計はなく、どの家計も成り立つよう、調整協力サポートし合う経済機構。

 労働に対する分配や報酬という概念はなく、各家庭の生活資金を調整融通するための経営。また、各経営体も独立経営ではなく、無理や負担が偏らないよう資金も人材も補完し合う相互援助経営。

 自ら、囲いや隔てを持ち続けたり、頑なに拒絶するような人でない限り、意図しなくても、なんの努力もなく、いつの間にか、研鑽社会の経済機構の中に住み暮らしている自分に気付かれるであろう。


<資本>土地・労働と並ぶ生産要素の一つ。
     (過去の生産活動が生み出した生産手段のストック)
<資産>金銭・土地・建物などの総称。財産
<経営>方針を定め、組織を整えて、持続的に事を営むこと。
<家計>一家の暮らし向き。一家の収入や支出など。生計。
<労働>生産手段や生活手段を作りだすため、体や知能を使って働くこと。

Category: < つれづれ > | 2007.08.20 Monday 12:00

コペルニクス的転回・・・かな?

赤信号だから、止まる。
金が要るから、稼ぐ。貯蓄する。
時間が決まっているから、それに合わせる。
規則があるから、守る。
相手がそう言った。
こういう被害を受けた。
うまいラーメンだ。
立派な家だ。
ひどい人だ。
そういう出来事があった。
こういう事を体験した。

みんな、自分の外のこと(動かせない事実)を言っているつもりだろう。
これを「天動説感覚」と呼びたい。
みんなが、この感覚で暮らしているので、気づかない。
 「特講の怒り研や、のこれますか?」もキッカケにはなるが、その体験を調べる機会がなければ逆効果だと思う。

「地動説感覚」なんて想像もできない。そういう人が居たら、ガリレオのように排斥されるかもしれない。未だ、そういう時代。
研鑽が始まるか、始まらないかは、これほどの変革であるということ。

Category: < 精神革命 > | 2007.08.18 Saturday 15:00

2007.08 自分を知るための・・・

自分を観察する(現象)  自分を観察する(頭の中)
五感について  感覚全般について  思い・考え・気持ち・心 と 感覚
<自分の感覚であるとの認識>

形容について   何を形容しているか
感覚 と 実際 との混線
 時間・時刻  金でものを買う  ルール・約束を守る  「・・・が要る」
<事実そうなのか 自分がそう思っているのか>

見る 聞く 味わう など・・・五感+認識のメカニズム
 五感と認識で「実際がこうだ」と事実化するメカニズム
 「人が決めた事」「自分が思ったこと」を事実だとして、それに沿って行動する
 知識 学説 体験 経験 などを事実化するメカニズム
 事実化していながら、その自覚なく、実際あるものとして暮らしている
        天動説感覚 ====>> 地動説感覚へ
<どのように見て・聞いて・反応しているか>

 感覚--->事実化--->架空
 実際--->感覚 --->現実
                 頭の中のこと
 出来事 → 報道   → 出来事を知ったつもり
 気持ち → 言葉   → 気持ちを知ったつもり
 声   → スピーカ → 声を聞いたつもり
 実際  → 映像   → 実際を見たつもり
 実際  → 計測器  → 実際の値を知ったつもり
 実際  → 記録   → 実際を知ったつもり
 実際  → 記憶   → 実際を記憶しているつもり
 実際  → 捉え方  → 実際を捉えたつもり
<実際はどうか、に関心がいくと・・・>

 「事実」の定義 「実際」の概念
 「自分の頭の中のこと」という回路・歯車が動き始めると・・・
 一人の人としての自覚・・・頭の中のことであるとの自覚(芽生える 養う)
 「記憶と事実」
 一人相撲・・・事実化した記憶による事実化した喜び・悲しみ
<自分の考えに自信があるから事実化する>

 そういう自分だとしている自分の考え
 自分の考えとはどういうものか = 自分の位置
 知っているつもりでいる自分(知らない自分)を知らない
 知らない自分であることを知る
 自分を知るスタート  実際を知るベース

Category: < 精神革命 > | 2007.08.07 Tuesday 16:00

研鑚を実用化する研究活動

肉体的にも精神的にも、痛みや苦しみがある場合は、先ずはそれを取り除きたいと欲するのは当然のことだと思う。その為に、医者や医術の力を借りる場合もあるだろう。
痛み・苦しみ・悩み・迷い等にさいなまれている状態で、自分を客観視しようとか、知性を働かせようとするのは、かなり難しいのではないだろうか。
研鑚でやろう、研鑚でやろう、としたけれど仲々・・・という原因は、そういうところにもあると思う。
研鑚会に参加すれば、研鑚できるように思ってきたが、そうではないようだ、研鑚し難い状態の場合は、先ず研鑚のための前準備が要るのではないか、ということで、いろいろと研究を重ねている。

幼少期からなら、素直にまっすぐに研鑚科学する知性を培いつつ、成長することができるだろう。
また、途中からでも、おおよその人は「研鑚セミナー」を経ることによって、研鑚へのキッカケが出来ると思う。
それ以外の人も「内観コース」を経ることによって、自己研鑽へのキッカケができるようだ。
あるいは、別の観点から、瞑想的な手法を取り入れて、自分を重く見ないトレーニングも研究課題としてある。
その他、その他、人の状態・症状というのは、無数にあるだろうから、これが決定版というのではなく、その人、その人に応じた方法の研究が必要な場合もあるだろう。

飛行機の理論はあっても、実用化技術が伴わない時代には、「やはり、飛行機なんて無理だ、駄目だ」とされていた。
金の要らない社会も、実用化の研究が進まないと、「やはり、そんな社会は無理だ、駄目だ」となる。

「人間性や知性の研究」と「研鑚の実用化研究」は、研究所と研鑚ライフセンターという機関があるからこそ、結果や成果をあせらずに一歩一歩、進めていけるのだと思う。


1959年10月「愛和」より
・・・それを転機として、山の研鑽がスムースに活動し始め、一体の理が現象化して来たわけで、本当の研鑽の産みの苦しみには生命が賭けられ、本当の研鑽には生命が吹き込まれていると思う。
 研鑽の理提案は私達だったとしても、本当の研鑽の理を明確に実現化し実用化し、活用出来るようにこの世に産み出したのは生命がけの業績だったと私は思っています。山の人々の中にもこの事実を確認している人が相当あります。


1960年4月「考え方の革命」より
 こうして、けんさん方式に考え方を革命した場合に、現在までに正しいかの如く思いこまれていたものが、続々とその間違を発見される。キメつけの考え方から、キメつけのない考え方への頭脳革命ともいうべきものであろう。
           :
 けんさん方式によると、その頑固さもその弊害も次々と発見され、頑固は急速に減退し、人と人との対立抗争がなくなり正しい社会が構成される。
           :
 このけんさん方式によれば、我執抜きは容易であり、怒り位はわけなく解決し、絶対に腹の立たない人の続々できることも当然のことである。



2006.6.17 研鑚を知らずに・・・

Category: < 世界革命 > | 2007.08.04 Saturday 12:00

人の中身について話そう

・・・というと、なんだか、うわさ話をするようで、あまりイメージが良くないかもしれないが、これは、類推・憶測・疑い・勘ぐり等ではなく、「その人の中身の実際」を見ようとするもの。

<人の中身 主体の文化へ>
例えば、私は○○は苦手だ、○○が得意だ、○○がやりたい、と思って言ったとしても、そう思っているから、そう言ってたから、「実際にそうだ」とは限らないもので、その人の実際はどうだろうか。
「ウソ」か「本心」かという問題ではなく、心底そう思っているとしても、「その人の実際はどうだろうか」というもの。

私は気づいた、目覚めた、悟った、神の声を聞いた・・・等も、それを否定するものでなく、その人の体験や思いを言っているのだろうから、それはそれとして、・・・で、その人の中身の実際はどうか。
その人の体験や行為行動や言ったこと書いたもの等、現象面はどうあろうとも、その人の中身の実際はどうか。
(結果や効果、現象面の話だけでコロリといく、現象面に弱い人が多い)

「その人の中身の実際」を見るということは、見ようとしたからといって、すぐに見れるものでもないだろう。
そのような文化というか価値観というか、そういう環境の中で、人の中身に興味・関心が湧き、感覚が養われ、見る目が育つのだと思う。

職場にも家庭にも社会そのものに、そういう文化を育てたい。



<真の幸福観へつながる道>
現象面はどうでもいいということではない。
現象面の変化や経過・結果をよく見て、そこから、中身はどんなだろうかと、中身(核心・本質)を見ようとするもの。

間違いを指摘したりして、いくら正しきを目指しても、現象面をとやかく言っている間はね・・・。

子育て(人育て)に関わる人は、中身を見る目を養わないと、現象面で一喜一憂する人を作るばかりになると思う。
幸福感を追う感人種にはなって欲しくないと思いながらも、人が喜んでいたら「良かったね」、がっかりしていたら「残念だったね」、では、「人の中身を見る目」も「中身主体の文化」も育たないだろう。

これは、センジ詰めると、その人の「幸福観」のことでもある。
私が本当に幸福だと思えたら、実際に幸福なのか、どうか。
その人が幸福だと思えたら、それで幸福なのか、どうか。

自分を観察し、自分の中身を見ようとすると、
自然と、人の中身に、社会の中身に、関心が向いてくる。
中身に関心が出てくると、やはり、本当の現象、現象面を正しくするには、中身を正しく・・・という、やりどころが見えてくると思う。


<現状の価値観の自覚から>
現象面主体の価値観で長年やってきていると、そう簡単に切り替わるものではないが、先ずは、自分の現状の価値観、現象面主体の価値観をハッキリと自覚することだと思う。

自分や人の言動、いろいろの出来事に対して、即座に反応している自分の実状が見えてくると、徐々に、現象面ではなく、「その中身はどうなんだろう」と中身の方へ関心が向いていくと思う。

そして、「中身はどうなんだろう」「中身はどうなんだろう」と主体や重点が中身へ向かえば向かうほど、観念や感情で現象面に対して即座に反応することが少なくなり、冷静に受け止めて、じっくりと見たり聞いたりできるようになってくる。
あえて意識しなくても、自分に言い聞かせたりしなくても、「良いとも悪いとも云えない自分」、「人の言動や出来事に一喜一憂しない自分」ができてくる。

先ずは、そういう自分たちに成り合って、職場や家庭や日常会話でも、人の中身について語り合おう。


1961年3月 理念研より一部抜粋
内部機構をつくる上にも、元の心の面、仲良しになるための三人制にしても、一人で偉い人になる専制者は嫌われる。
よろこんでくれるとしても、物欲の人が喜ぶのやったら、ええかげんなもの。
蒔いた通りの種が生える、簡単なこと。
気持のない行為は一切無効の行為。
真底にあるものを見ての配役、非常にプラスに見える人は、又マイナスがある。
差引残高を見る、スプーンの例。
着実ないき方ができる人が、実顕地の実権を握るようにする。
最後のどたん場になったら、どうなる人やろかと着眼する。
熱心にやっている人でも(理論、行為共に)自分の考えに合っているうちはやる。一度自分の考えに合わんとなったときのことを見たらよい。
喜ばしたいは(内容によるが)全部(金銭報酬を求めないは初歩)報酬を求める。
山を良くしたいも、私から出たものは(気に入っている為だけ)
どんなことでも、研鑽生活に始まって、研鑽生活に終わる。

Category: < 社 会 理 > | 2007.08.02 Thursday 23:00

人の中身に焦点をあてる社会

束縛や押し付けや待遇上の差別のない、極々自然な自由で平等な社会に立ち還りさえすれば、自ずと、それぞれの個性を磨き、持ち味を発揮し、お互いを生かし合う、幸福社会へと生長していくだろう。

立ち還るべくベースとなる人間社会は、もっともシンプルで素朴なものだが、人間そのものが複雑化し混迷した状態では、素朴な社会にすら立ち還ることができない。

人間そのものが問題となる。人間の正常・健康が焦点となる。

明るく楽しく元気に生き生きとやっている、喜びや感謝に満ちて、充実感・満足感を持ってやっている、他の人を思い、気配りを忘れず、礼儀正しく真面目で誠実な人、・・・等々の条件が揃うと、正しい人のように思われがちだが、これらは全て現象面のことだろう。

その人が、正常・健康か、どうかは、その人の中身のこと。
その人の中身に焦点をあてることになる。

仕事をキチンとこなす、よく働いて業績を上げている、人あたりが良くて清清しい、等々も現象面のこと。

現象面に関心ある人たちによって、現象面を重んじる社会気風ができる。
逆に、現象面のみに捉われないで、その人の中身に関心ある人たちによって、中身に焦点を当てる社会気風ができると、楽しそうに生き生きとやっているとか、業績が上がった等で、良かったとならないばかりか、そのようなことにあまり関心が向かない。
喜びに満ちて感動していても、或いは、その逆であっても、だからどうのこうのでなく、その人の中身はどうか。
そこの人たちも、そこの気風そのものも、現象的に何があっても、嬉しいもガッカリもない、とても淡々とした営み。

喜びや満足感・充実感などを欲するのは、その人自身の中に何か枯渇していてその反動の現われではないだろうか。
現象化した心境面というものは、その人の中身と裏腹であることが多い。
(寂しいから楽しもうとする、ひけ目があるから対等であろうとする等)
喜びや満足感・充実感があるというのは、あまり正常な状態ではないのかもしれない。


その人の中身とは、その人の方向性とか、内在する可能性などでは、ないだろうか。
そんなことは、分からない・難しい、としないで、そこがその人の中身だとしたら、そこに焦点をあてて見ようとしないでは、いつまでたっても、現象面の砂上の楼閣を追うばかりだろう。

自分も含めて、この人はどんな方向性にあるだろうか、状況が変化したらどう出てくるだろうか。(今はわれ、ひとと共にと思っていても豹変しそうな人など)
今のその人は一時的な過渡的・段階的な、その人の一側面・一断面で、その人の中身ではない。
その人の中身はどんなか。

シンプルで素朴な人間に立ち還るところから、人間本来の社会組織が始まる。

いつも、いつも、その人の中身を重んじ、中身を見ていこうとする人たちによって、中身に焦点をあてる社会が実現していく。
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