BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― アーカイブ: 2006/07 ――
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Category: < 具現方式 > | 2006.07.31 Monday 17:00

具現方式 (その場が そうなるには・・・)

「研鑚セミナー」や「合宿研鑽会」などを、じかに薦めても、それに当てはまるのは、極々稀な人だと思う。
研鑚会に送れば、その場が変わっていくと思い易いが、それは「人まかせ」「神だのみ」みたいなもので、逆だと思う。
その場が変わっていくことによって、研鑚会にいく人が現われるのだと思う。
人に研鑚会を薦めるより、その場をそういう場にしていくことだと思う。

子どもらの未来を考えて「保育園」や「学習塾」をやるのいいけど、
子どもが正常に育つ環境としての塾やサークルやセミナー等、どんどんやって欲しいけど、その場をそういう場にしていけるか、どうか、だと思う。
「さぬき兄弟」「仁」「ひまわり」「工場の請負い」「スリーシー」「エコサウンド」等々の中にもやめたらいいものあると思う。その場がそうならないもの、やる意味ないと思う。

かわるがわる交代で研鑽会に参加しても、その場がそうならない体験、たくさん積んで来たと思う。
でも、未だに、そこに関わる人が研鑚会に行けば、何か進むかの如く幻想を抱いている。

その場が、そうなってこそ、研鑚会に参加することが生かされるもの。
その場がそうなるには、そういう場にしていける人が不可欠と思う。
本当をベース自分の目的 で行こうとする人

そういう観点に立つと、一生懸命やってるとか、明るく仲良くやってるとか、研鑚会に力を入れてるとか、・・・・そういうことでは、本質的な方へ進んで行かないことが、よく分かると思う。
本当(真実)をベース に 自分自身の真目的 で行こうとする人を、その場に少なくとも一人は実現するよう、そういう人を養成する研鑚機会を生涯学究制に設けたいと思う。
そこで、認定を受けようとの意欲ある人によって、日常生活や職場生活の中に、はっきりとした目標ある研鑽が実現していく。

真理と方法を探究し合って行動する、真理実践の社会活動体 が、そこに実現する法。

Category: < つれづれ > | 2006.07.29 Saturday 20:47

「ほんとう研」 も 「もくてき研」から・・・

みんなでやろう、一緒にやろう・・・・、で、焦点がボケる。
やることを検討している、相談している。そもそも何をやろうとするかを詰めないで。
自分の目的 があいまいな人の寄り集まり、・・・・みんな同じ目的のつもり。
実は、自分の目的 を知らないだけで、それぞれの思惑で寄っている。

自分の目的 を見出さないで、一緒にやろうの人は、事情が変わると、寄ったり離れたりする。自分の中のものでやっていないから。

自分の目的 を見出し・・・・、で同じ目的の人で手を携えて共にやろう。自分の中のものでやる人は、自分の生き方をする。

しかし、強い信念で自分の目的もって、生き甲斐・やりがい感じて生きている人、世の中にたくさん居る。
はっきりした自分の目的もって生きている・・・ それがどうした? それやって何になる?
自分なりの考え 自分なりの目的 自分なりの生き方 自分なりの人生 自分なりの仕事・生活行動


ここから ほんとう研の本領 に入る。
人間とは、どういう生き物か?、から入っていくと、自ずと人間らしい人間が明らかになる。
人間らしい人間、人間らしい生き方、何のための人生か、生きる目的は何か・・・
本当の生き方あるな、本当の人生あるな、本当の人間像でてくる
そうしたら、本当の仕事、本当の暮らし、本当の社会・・・と必然の理
本当の社会も自分の目的も一つのもの。

本当をベース自分の目的 で行こうとする人
これは誰とも何とも対抗しない。持たない一体の世界
その場に(職場に)こういう人が一人いればいい。
本当(真実)をベース に 自分自身の真目的 で行こうとする人。
その場は必ずその方向へ。

Category: < 世界革命 > | 2006.07.29 Saturday 08:55

実証の段階へ・・・

 いよいよベールを脱いで、
“共用社会”
“誰のものでもない”
“誰が用いてもよい”
“無所有 一体主義世界”

 を論理的に立証的に編輯して世界に打ち上げます。
(1959.10.10 第二信より)

“共用”・・・になっていないという自覚
“誰のものでもない”・・・になっていないという自覚
“誰が用いてもよい”・・・になっていないという自覚
“無所有”・・・になっていないという自覚
“一体主義”・・・でないという自覚

  そうなっていないということを気づける(自覚できる)か、どうか。
  そうなっていない状態で、そうやろうとしても、できない当然の理。
  先ず、自覚。それから、そうなろうとする。そして、そうなるには・・・。

人の心も、生活行動も、機構や運営も、
“共用” の方向に進んでいるか、どうか。
“誰のものでもない” という方向に進んでいるか、どうか。
“誰が用いてもよい” という方向に進んでいるか、どうか。
“無所有” の方向に進んでいるか、どうか。
“一体主義” の方向に進んでいるか、どうか。

 これを見分けるの難しいと思う人いるが、そんなことない実に易しいこと。
 これに関心がないから、見分けられない訳で、関心ある人なら、すぐ判る。
 今のご時世、商取引き・近所付き合い・人間関係のかけひきや、年金・保険・老後の蓄え・資金運用・金利などなど、とても複雑なことを会得して巧妙に使いこなしている。
 これだけのこと一般人の誰もがやれるんだから、無所有 共用 一体 か、どうか、を見分けるなんて、誰でもできる。高度な知恵いらない。関心があればできる。


赤ん坊のときは、誰もが何も持ってないのだから、難しいことではない、誰でもなれる、当然の姿。
人間が知恵あるにも関わらず、人間(自分)の考えで良いと思うものを良しとして、そうでないもの排除して、そうすることで、より良く生きられるかの如く思う、思い違い。
人間(自分)の考えで、取り込んだり、排除したり、そういう傲慢さが、人間(自分)を狂わせている。
人間(自分)は、そんなことできない存在であることを知る。

猛獣・病原菌・台風・地震・・・あるから安心できない楽しく暮らせないなら、人類幸福は永久に不可。
なにものとも共存し、棲み分け、保ち合って、豊かに安定した暮らしができるはず。(これら人間の観念が通じない相手の例の方が分かり易い)
人間の考え振りかざしたり、人間の考えで裁いたりするから、善玉・悪玉つくったり、征服・克服・支配などの発想が出てくる。
自然界の何ものとも抗しない、対立がない、共存共生あるのみ。当然のこと。
ましてや、同じ人間同士は尚のこと、知恵を生かしあい、力を足し合えるから、・・・


ミソ も クソ も 一緒にしない 無所有 共用 一体 の実態か、そうでない実態か、に関心ある人が増えると、この社会の実態が、もっともっと浮き彫りになる。自分の思いや感情を振り回した「観念や感覚による評価」でなく、実在する人と社会の実態に着眼する。

Category: < つれづれ > | 2006.07.27 Thursday 00:00

本当(真実)について

今の世で、本当(真実)ということに関心がないのは当然のような気もするが、
ヤマギシズムに触れた人の多くは、本当の社会、本当の生き方、本当の仕事、本当の食べ物、などなどを志向しているのでは、ないのだろうか?
しかし、本当(真実)ということに関心のある人が、実に少ない気がする。
勿論、本当(真実)という言葉を発しているか否かではない。

日常、接するあの人、この人、・・・
いったい何に関心があるのだろう? 何に向かって生きているのだろう?
・・・と、???の人が多い。
明るく朗らかにしてれば、何か良いことしてるような気でいるんだろうか? と思う人もいる。
本当(真実)に関心がないということは、本当(真実)を願い目指して生きていない、そういう暮らしではないということだと思う。
本当(真実)に関心のある人が増えれば、もっともっと、本当(真実)の方へ進むと思う。

私は、私なりに、本当(真実)であろうと思うものを見出し、それを実現しようと思うからこそ、日常の事々が、本当(真実)かどうかが、とても気になる。
でも、本当(真実)かどうかに関心のある人は、実に少ない気がする。
関心のある事が違うからか、話をする相手も少ない。

本当(真実)に関心のある人がもっと欲しいなあ。話し相手がもっと欲しいなあ。

Category: < 世界革命 > | 2006.07.26 Wednesday 23:00

近頃 実証されてきたこと・・・

幸福社会、本当(真実)の社会の実現を願っているつもりでも、
幸福社会、本当(真実)の社会の何たるか分からないでは、実現しないのが当然の理。

その原因は、幸福・真実を知ろうとしていない。
幸福・真実を知るすべがないからか、その代替的に、
観念的欲求や幸福感情を追い満たし、それで済まそうとしているのではないか。
或いは、観念的欲求や幸福感情を満たすことが、幸福・真実であるかの如く勘違いしているのではないか。
日常生活にしても、仕事に打ち込むにしても、人生設計するにしても、その指針は、観念的欲求や幸福感情を満たすことに終始しているのではないか。


幸福社会の実現、本当(真実)の社会実現の真髄は、幸福・真実を知り見極め、それを実現しようとする研鑽実践にある。
原理・真髄は、すこぶる簡単シンプルなものだと思う。

しかし、観念的欲求や幸福感情を満たすことから抜け出せないのが、今の殆どの人の実情だと思う。
観念的欲求や幸福感情を追い求めるのは、人間の観念の肥大化(頑固・常識・道徳・盲信・妄想・自信・思い込み・感覚優先・自分の考え優先・etc)そのものだと思う。
朝早くから仕事に打ち込んでいる姿は、良いように思われているが、その実は、人生無知故の暇つぶしや金稼ぎで、それに意義づけ・正当化・やりがい等を上乗せした自慰行為(マスターベーション)が、殆どではないだろうか?
そこには、幸福・真実を知り見極めようとする研鑚のかけらもないと思う。


幸福・真実に焦点が定まり、研鑚の光が当たれば、当然その方向へ実現が進む。

それには、先ず、観念的欲求や幸福感情から抜け出す。
それには、自分の思いや気持ちや感情や考え優先で、やろうとしている自分、暮らしている自分を自覚する。
そして、自分の頭の中のものではなく、真理・真実・事実・実際の方に重きをおき、何が幸福か、何が真実かを、知り、見極め、実現しようとする。

「研鑚セミナー」や「自分を知るための研鑽会」は、そのためのものであるが、
それで、幸福・真実を知り見極められるものでもない。
現状の自分を自覚し ~ 自分やこの世の成り立ち・事実実際を調べ ~ 人間(自分)や社会の本来の姿を調べ ~ 幸福・真実を知り見極めようとする。

自分を知り自覚することから ~ 真正世界実現までの道筋・軌道を、理解し会得された人が現前しつつある近頃。
真目的の実現は、唯々、これにかかっている。

Category: < 世界革命 > | 2006.07.25 Tuesday 19:00

Next Society

従来の社会では、必要とされていることの多くが、
次に来る社会では、要らなくなる。

 権利・義務の社会から、権利・義務のない社会へ
 誰々のもの、誰々は使ってはならない、という社会から、
       誰のものでもない、誰が用いてもよい社会へ


権利・義務のない社会
 言葉では、権利・義務がないというと簡単そうだけど、実際的に考えてみると、
 当然であると主張できる何ものもない。生きる権利、食べる権利、人権という言葉も要らない。
 法律を守る義務、納税義務、扶養義務、など、しなければならないこと、強制されるもの、何もない。契約や責任を果たす義務もない。

物・金・人・自分 誰のものでもない誰が用いてもよい社会
 云いかえると、承諾や許可が要らない社会・責任や罪や罰のない社会
 「誰の仕事でもない・誰の家でもない・誰の金でもない・誰の名義でもない・・・・誰が用いてもよい」
 私とか、あなたとか、なんの承諾も、誰の許可も要らない。
 いくら働いても報償も給料もない。保険も保障も要らない。
 誰が何をしても責める何ものもない。不平・不満・文句など出ない。
 責任という言葉も要らない。罪も罰もない。


as one society
 権利・義務・責任・承諾・許可などなど要らない人による社会
 次に来る社会の礎として、as one社会を実践する。

こういう社会では、なんでもスースー行く。
いちいち了承を得たり、みんなに諮る必要もない。
承諾不要、相談もなし、「研鑚あるのみ」でいける人が、この社会やれる人。
自分の思いや感情や気持ちを出さないとやれない人は不可。
不平・不満・権利主張のある人は、旧来社会で・・・。


次に来る社会は、無所有共用社会
 これを願っても望んでも、無所有共用で行ける人にならないと・・・。
 無所有共用とは「物」のことではない。
 自分の考え「自分そのもの」を無所有共用でいける人にならないと・・・。
 生涯学究制は、自分を知り、人生を知り、人間社会を知り、本当の社会人たり得る人格と資格を養成する機関。

 竜巻や狼に子供をさらわれても、誰にも文句は云えないだろう。
 人間の行為にのみ、責任・罪・罰が発生するのは何故だろう?
 自然災害でも、誰かの責任にしないと気が済まないらしい。
 この世の出来事 凡て、誰のせいでもない、誰が悪いのでもない。
 自然の中で生きた昔の時代は、人間が作ったものが自然現象で崩壊・全滅しても、さほど、悲しんだり、悔やんだり、苦悩・苦心なかっただろう。
 理屈を知らなくても、人間の考えよりも、自然の力の方が圧倒的に大きいことを体で知っているだろう。
 現代でも、どんな人でも、幼少の頃は、自分の意志では、どうにもならないことばかりだと、理屈ではなく、体で知っている。
 子供は、文句言わないで、産まれた家で、付けられた名前で、与えられた物を食べて生きていく。
 人間の考え(自分の考え)膨張、人間の考え(自分の考え)独走でなく、
 自然真理・事実・実際に即応してより良く生きようとするところに人間の知恵が働く、自然真理・事実・実際を軽んじていては、人間は決してより良く生きられないと思う。
 そういう、元来の人間、人間らしい人間に立ち還るために生涯学究制はある。

Category: < つれづれ > | 2006.07.01 Saturday 09:30

やろうとする人によって・・・

ヤマギシズムに出会い、親愛社会を志向し、
「人と人との繋がりを大切にして、仲良し社会を作ろう」というようなことを思ったり、言ったりする人は多い。そこをもう少し突っ込んで・・・、

「真の人間向きの理想社会、本当の人間社会、無所有一体生活、ヤマギシズム社会を実現しよう」
・・・という話になると、退く人も多い。その理由として思うのは・・・、

 ・「ヤマギシズム」とか「真の・・・」というのが分からない
 ・「ヤマギシズム」とか「真の・・・」という言葉に変なイメージがある、窮屈な感じを抱く。

 ・・・で、自分なりに描ける親愛社会・仲良し社会をやりたい。自分なりの考えでやりたい、との人も多い。

揺るぎない本当の社会を実現するには、そこを通るしかない道があるのではないか。
本当(真実)のものを見極めながら行くしかないのではないか。
自分の考えで良いと思うものをやるというのでは、本当に願っているものは実現しないのではないか。

 ・・・と、自分の意見や考えは大いに出すが、それを優先・重視しないで、「本当はどうか」の「研鑚」で同調の人と共に実践しようとする人。

生きている間に実現したい目標のある人は、今の自分の毎日・毎日が、それを願っての暮らしなのか、実際にやろうとしてやっているのか、だと思う。

生涯学究制の会員だとか、研鑚会に参加しているとか、as oneに関わっているとか、ではなく、所属や名目などに関係なく、各自の目標を実現しようとする人たちの日々の結束・実践が、生きている間の足跡となると思う。

自分を調べ知ることや、自分で働き稼ぐこともあるが、それに終始する人生で済ませたくない、「生きている間に何を実現して後代へ何を遺すか・・・」
ここに焦点を定めて生きる人や、「どうしたら実現するか」「どうやって実現していくか」を、語り合う場が、もっともっと現前して動き出すのを期待しています。
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