BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― アーカイブ: 2005/07 ――
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Category: < 精神革命 > | 2005.07.29 Friday 08:28

研鑚体得 予科課程

特講を受けたことがある人達が寄って、研鑚会になるための「研鑽体得」の課程
「本当はどうか」と口では言っていても、「本当」よりも目に見える「実績結果」の方が大好きな一般凡人のための研鑽機会
例えば・・・、
合格したら「良かったね」、不合格なら「残念だったね」の人達が寄っても、「本当はどうか」の研鑽会にはならないと思う。

「本当」が見えない人に限って、「本当なら結果に現われる筈だ」などと、「本当」より目に見える「実績結果」に関心があることの言い訳をする。
現象化する以前の「本当」を見抜けない明き盲(あきめくら)。若い「本当」の芽を次々とつぶしていく。

良いとされている結果を出せば評価され、その逆なら見下される、
そんな社会通念のまま、研鑚会をやろうとしても、「本当はどうか」っていう研鑚にならないと思う。
本当に「本当はどうか」と調べる「研鑚」を体得しようとする人の課程です。

Category: < 世界革命 > | 2005.07.21 Thursday 08:27

手段と目的

仕事をするのは手段、子育てするのは手段、研鑚会するのは手段、やることなすことが手段。
で、目的は何か。目的があるから・・・をする。目的の為に・・・をする。目的がなければ、やらないだろう。
その目的とは何かというと、言葉では云えても、実態がない。漠然とした曖昧なもの。
やること(手段)は、ハッキリあるのに、目的が曖昧? そんなことあるか? オカシイぞ!!
「この道を行けば確かダ」と云う人が、「で、何処に着くの?」と尋ねられて、「知らん!」と云っているようなもの。

「それはやらなきゃいかん」、「それはやってはいかん」というくらいに、ハッキリ云う人でも、何故か、何故か、何故か、と問うて行くと、何故「やらなきゃいかん」のか、何故「やってはいかん」のか分からんようになる。

目的(そうなること)を願って、やっているのだから、目的のための手段になっている筈だという思いから、やることに一生懸命になれるのだろうか?

そういう思い込みの、おかげ?なのか、やることが目的になって、やることがやれたら、まるで目的を達したかのような喜びや満足感があるらしい。

仕事がうまくやれて良かったね、利益が上がって儲かって良かったね、子どもが育って良かったね、研鑚会が楽しく繁盛して良かったね、・・・・皆それを目的にしている人にとっては、さぞ良いことづくめでしょう。

でも、こちらから、観ると、それがどうしたん?  あーそれからどうした!? というものにすぎない。 何か本当の目的と関係があるのかな?・・・と。

仕事をする人が「仕事するのは目的でない」
子育てする人が「子育てするのは目的でない」
研鑚会する人が「研鑚会するのは目的でない」

などと、云ってたら、さぞかし顰蹙(ひんしゅく)を買うだろうな。常識社会では叩かれるだろうな。

本当の目的を「目的」に置かないと、本当の世界にならない。

Category: < つれづれ > | 2005.07.13 Wednesday 08:26

しごと けんさん

「私の仕事は何か?」 「その仕事は何のためか?」

「仕事」という言葉には、コテコテの常識観イメージが、ベットリとへばりついている。
「仕事」って、生きてるうちにやる仕事、自分の生涯の仕事、ホントの仕事だよ。
会社や組織で、持ち味を活かして充実感持って働いても、会社や組織が無くなった時に、仕事が無くなってしまうなら、「自分の仕事」ではなくて、「会社の仕事」をしていたんだね。
「自分の仕事」をしているのか、「会社の仕事」をしているのか・・・?
一生懸命に働いていても、「自分の仕事」は休職・失業中のまま・・・?

そうやって、調べていくと、「自分の仕事」に就いている人は、どれほど居るかな?

休職中・求職中・失業中・訓練中・研修中・etc.の人が多いみたい。
いつになったら、「自分の仕事」に目覚めて、就くのかな? 働くより、そちらが先だと思う。

Category: < 一体の理 > | 2005.07.09 Saturday 08:25

一体生活調整機関

一体生活調整機関の趣意書が欲しいと思う。

「聞ける心の世界」「持たなくていい心の世界」「溶け合って境のない心の世界」からの人間社会の顕現。

「どんな人の声も聴けて」「囲い禁止する要がなく」「溶け合って離れようがない」人に、誰もが立ち戻れる社会。そういう人に育ちあう社会。

実は、調整機関に限らず人間世界というものは、職場も家庭もどんな組織でも、人と人とがする行為は、これなくして決して成り立たない。
人と人が共に生きるには、これが絶対不可欠だということを、心底では誰もが知っている筈だが、現状の人間世界が、あまりにかけ離れている為、そんな人間関係は無理と諦めている。或いは、そういう人間関係を欲しているという自覚もなく、むしろ、そこまで近しい間柄は望んでいないという観念。

人と人との間柄を軽視する人は少ないだろうが、それでも何か事を為す手段か一要素くらいに捉えていて、仲良くないと事がうまく進まないから、仲良い方がいいとか、事が順調に進んでいると人間関係に問題が起きないから、それで人間関係ができていると思い易い。
現象による思い込みで、心の世界を観ようとしていない。
心の世界からの本当の人間世界という理想がないと、ほどほどの現象面で人間関係ができていると判断し易い。

人と人との間柄とは、こんなものではない。
これは精神論や心の持ち方のことではなく、生産・製造・サービス業・政治・教育など凡てに渡って、
人と人との間柄が本当のものにならない限り、人と人とでする行為・組織は絶対に本当のものにならないという当然の理。

Category: < 人 間 理 > | 2005.07.08 Friday 08:24

こころのせかい

自覚しないくらいに当然になってるのかもしれないけど、
なぜ人と人が、こんなにもよそよそしいのだろうか?
身内というか、近しい、親しい、心ゆるせる、心底うち溶けられる人は、何人いるだろうか?
何億もの人がいるのに、ホントに近しい人は数人しかいないという人が多いのではないだろうか? 今の日本には、もしかすると一人もいないという寂しい人がいるかもしれない。

生まれてから、このかた、よそよそしい人間関係を教え込まれて来たと思う。「家族以外は他人ですよ。」「他人と親しくするものではありません。」「親しくしてはいけません。」だまされないように、負けないように、損をしないように、警戒心・不信感・優劣感・勝負感などを植え付けられて来た。

このような、教え込み・植え付けの被害の薄い人は幸いな人で、比較的、「心の世界」が侵されていないと思う。
安心の人の中で、安心して育つと、わが身を執拗に守ろうとする「我」も身に着ける要がない。疑いや不信感なく誰のどんなことでも受け入れられる。その人の中に、拒み対抗する芽がないから周囲にあっても育たない。

「聞く」とか「持たない」とか「一体」というのは「心の世界」のことで、なんでもない人と、とても難事な人とある。これは生まれや育ちや体験などの違いで、やむを得ないと思う。

「聞ける心の世界」「持たなくていい心の世界」「溶け合って境のない心の世界」を知って、そこに帰還しようとするものです。

本当の人間世界の素晴らしさを実現・実感・実証しようとするものです。

Category: < 人 間 理 > | 2005.07.08 Friday 08:23

つづく ひとけんさん

くどいようだけど、人に一番重要なのは、心の状態、心の世界の状態。

何をやっているか、とか、何を言ったか、ではなくて。
明るく、楽しく、面白く、暖かい気持ちでやっていると言っても、心の世界は、どんな状態か。
誰と会っても、どんな人を見ても、その人の心の状態に気が行く。「この人、どんな心の状態なのかな?」
誰でも、何にでも、悪くしよう、悪くなろうと、暮らしている人はいないと思うけど、・・・
誰でも、何やるのでも、先ず心の状態が先で、何にでも心の状態が現れるので、良くしよう、良くなろうと、するなら先ず心の状態を良くすること。

心の状態を良くする、と言っても分かりにくいけど、先ず心の状態に重きを置くというか、そこを外して何やっても駄目だということが、腹に入ったら、心の状態に関心が行くと思う。
正義感・道徳感・良かれと思っての行為は、観念的で宗教に似たところがあり、一生懸命に良いと思って、良かれと思ってやっていても、心の状態とは別のもの。思い観念を心と勘違いしているから自分の心を知らない。思い観念が邪魔をして心に届かない。

心の世界・心の状態は、人間の核とも言えると思う。
心の状態のことを「人格」とも言えると思う。(既成社会通念の人格者とは異なる)
何か良くできた人とか、立派な人という見かけのことではない。
心の状態、自分を知る人、自分の心底からの言動の人。 そういう人は観念的になって振り回されたり、人と一線を隔てたり、ひっかかって腹を立てたりしない。こういう現象を言うと、すぐに現象の方に気が行く人が多いが、現象ではなく、心の状態のこと。
現象面の現わればかりに気が行って、それを正そうとしても人格は変わらない。
腹立たなくなったって、ひっかからず楽しくなったって、それだけのこと、心の状態はイマイチのまま。

人に対しても、自分についても、心の世界の状態、自分で自分を本当に知る、自分の心底からの言動・・・・。そこにこそ人間の真価があるので、そこに重きをおかなければ、自分も人も人間扱いしていないのも同然。
人と人との繋がりの状態も「人格」心の対人的持ち方の現われ。

心の状態「人格」ということに真に関心がある人、気が行く人で、研鑚を重ねたい。そして、そこを基調にした社会気風(人間性重視=人格重視)を醸成したい。
そして、本当の意味で、人として、良くできた人、立派な人を目指そう。

Category: < 人 間 理 > | 2005.07.05 Tuesday 08:22

ひとけんさん

先日の土曜と日曜に研鑚会をした。のべ13時間くらいかな。

「どういうことをやっているか」とか「どういうことを言った」とか・・・日常の関心は、ほとんどが目に見える部分に偏っている。
「どういう心の状態か」を大事にしているようだが、実はほどんど無関心。
「心の状態」が言動に現れていると言うのなら、言動から「心の状態」に関心が行くはず。

楽しそうでも、悲しそうでも、元気そうでも、しょんぼりしてても、バリバリやっていても、ダラダラしてても、その「心の状態」を観る。
「心の状態」とは、気持ちや感情ではない。

一体、楽、軽い、明るい、持たない、溶け合っている、殻がある、我執・我欲・頑固、キメツケ、独走、・・・
凡て心の状態のこと。頭で意識して、どうこうするものでもない。
どういう心の状態の人かを観ることになる。
「無我・一体・理念・真実・研鑚・・・・」などを理論・定義で言っても伝わりにくい。
そこで、直接、実在する人物で、実名をあげて「この人のこういうところ」というと分かり易い。

僕が、実名をあげて言うのは、そういう理由。その人その人の心の状態を観てのこと。心の状態のことを見方・考え方で言っても殆ど伝わらないから、名前をあげて説明。

頭の中の理想や目的、気持ちの暖かさや熱意、信心深い一途さ等々、では駄目。

人は「心の状態」が肝心。何をやっていても、どんな「心の状態」か、がポイント。そこに焦点を当てていると、人の「心の状態」が観えるようになる。
おてんとうさまには、お見通しと言うが、本当に「心の状態」を観ている人には観える。
価値観がそこにある。他のことに価値をおかない、関心がない。「心の状態」こそ、人間に最も大事なもの。

一人一人の心の状態にだけ関心があり検べる機関。「心の状態 研究」 これは「人間理」になるのかな。

Category: < 世界革命 > | 2005.07.05 Tuesday 08:21

つづく もくてきけんさん

『・・・、そういうことも気づかれて、なるほど、鶏でない、目的は鶏でない、と。』
『・・・やはり飼う人自体が、みんなの幸せ、自分の幸せでなしにみんなの幸せを願って、というそういう、あの気持になって、頭で分かったでなしに、それが実行出来る人になって、それからその次に、・・・』
『世界中の永遠の幸せのために、本当の幸せというのはそういうものだと思うんですが、そのために鶏を飼うんだ、或いは鶏は飼わなくても、そういう社会をつくることが先だ、まず自分がそういう人になって、そういう人がだんだんと、同じ気持の人が寄っていって社会をつくる。まあそこで、・・・』


いやぁー!ホントに迂闊だったね。
何々の為にと思って、何々を良くしようと一生懸命、心を込めてやっている。
それは大切なことで、有意義なことで、間違いではないけれど、
いつのまにか、それが目的の如く勘違いしている。
良い何々にすることは結構だが、・・・なるほど、それではない、目的はそれでない、と。・・・気付いた人、自分の目的を知る人で、何々をやる、そういう人でないと本当は何もやれない。
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