BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― アーカイブ: 2005/06 ――
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Category: < 世界革命 > | 2005.06.26 Sunday 08:20

キメツケのない社会

人間は観念肥満のためか、どんどんドンカン(鈍感)になっているらしい。
他の動物は、地震を予知して避難するらしい。
台風の進路の変え方とか、勢力の調整とか、そんなに難しくないらしい。
人間の犯罪・暴漢なども、矛先を変えるとか、勢力を調整するとか、できると思う。そしたら、ゆっくりと根本的解決を考えられる。
キメツケが外れると、感性が蘇えり、頭脳も明晰になるだろう。
日々の暮らし、仕事や子育て、組織の仕組みや運営など、頭を使って知恵を巡らせているつもりかもしれないが、もしかすると90%以上キメツケの中で、ほんの10%くらいの枠の中だけで右往左往しているのかもしれない。
キメツケがなくなると、とにかく、どんなことでも考案できる、「そんな無茶な!」というものがない。
山岸さんは、死んだ人を生き返らせられるとか、川の流れを逆にするとか、会の財源は人的に物的に無限大であるとか、言ってたねぇ。台風をなくすことや、クローン人間のことも言ってたらしい。

まあ、とにかく、キメツケのない社会になったら、争いというか、問題というのは無くなるだろうし、そしたら、あとは楽しく面白く人間冥利・幸福生活追究三昧しか、他にすることなくなると思うけど・・・。

Category: < 世界革命 > | 2005.06.26 Sunday 08:19

キメツケのない社会

動物が人を襲い、自然現象が人に被害を齎すことに対応して、動物を捕獲したり退治したり、台風や地震の予知や、予防策を講じる。
人が人に及ぼす被害に対しては、人を縛り処罰したりする。動物や自然現象には、罰則を設けて処罰するということがない、効かない。
動物でも、自然災害でも、人でも、害を及ぼすものに対抗して、それを食い止め、できることならたたきつぶそうとする発想・方向で臨んでいる。

被害の元となる原因をつき止め、それを取り除くという方向はどうだろうか?
動物や自然との間で争いになることはないと思う。(中には動物や自然に腹を立てて争っている人もいるかもしれない。)
人が急に休んだり働きを止めたりすると、害や迷惑を及ぼしたといって罪悪とされることがあり、処罰されることもある。無断で勝手に急死するのも罪悪か、処罰の対象か?

地震や台風のように猛威を振るい、甚大な被害を齎すものに対しても、対抗措置がなく諦めているのか、人間は被害を最小限にすることに努力する。
それと比べたら、極々小さな被害でも人が齎したとなると大変だ。
地震の原因を取り除くよりも、人災・犯罪の原因を取り除く方が容易だと思うが、縛ったり処罰していても、人災・犯罪はなくならない。
人が齎す被害でも、自然災害のように捉えれば、今よりは平和になる。
人は何を考え何をするのか分からない、外部からの制御は不能だ、と諦めた方が、今よりは平和になる。
地震や台風や人間のメカニズムをよく知って、幸福に生きる方法を考案しよう。
どうしたら、人が人に害を齎すことが無くせるだろうか、と誰のせいにすることもなく、検討・研究する。誰かのせいだとか、誰かの責任にしようとしていること自体、キメツケそのもの。
強風や高潮を防ぐ壁や、地震に強い建物や、犯罪者を牢獄に入れたり処罰したりするというのは、あまりに知恵が無さ過ぎる。

Category: < 世界革命 > | 2005.06.26 Sunday 08:15

キメツケのない社会

 みんなの暮らしに関わること、社会的なことで何か決めると、「こうして下さい」「こうしないで下さい」と、みんなで決めたことだから、みんなで守っていこうと、守らない人がいると、決めたことが崩れるから、守らない人が現れないようにしていく。
 これは従来の社会では当然のことで、これなくして安心して社会生活は営めないとされているだろうし、そのことが個人の自由を奪い束縛している等とは考えないだろう。

 それとは反対に、社会的に決めたことを、「このように決まりましたが、どうでしょうか」と個々に尋ねて聴いていく社会。「キメツケのない社会運営」

 キメツケの社会運営の中では、個々は自ずとそれに適合して、キメツケを覚え習い守り、その中で暮らしを成り立たそうとする。
 キメツケのない社会運営の中では、個々は自ずとそれに適合して、自由に好きなように考え、思いを出し、検討して暮らしていける。

 住まいも、仕事も、育児も、お金や恋愛・結婚も、「キメツケのない社会運営」の中で暮らしている実態、そういう人が随分いる。
 また、近くに住んでいても、「キメツケのない社会運営」の恩恵が薄く、沢山のキメ事や前提を持って、自分の狭い考えで行動し暮らしてる人もいる。

 凡ゆることを、いつでも根本から見直せる軽い明るい社会機構や運営の充実と、その社会機構や運営が広く多くの人に齎されるように・・・。

 個人の考えで暮らし行動することは、規制社会の制約をモロに受けるだけでなく、気付かない自分のキメツケ観念からの制約をモロに受けるものである。
 自分の考えで行動する方が楽だ自由だと思う人がいるということは、まだ「キメツケのない社会機構や運営」が未熟で、恩恵が薄いということの証とも言える。

Category: < 研鑽の理 > | 2005.06.25 Saturday 08:18

研鑚について

研鑚は、研究・検討とは異なるもの、あえて「けんさん」という言葉を用いる所以。

じ鑚は、真の科学ともいえるし、真の哲学ともいえる。真の科学的・哲学的要素を欠いては、研鑚とはいえない。

それから、研鑚する研鑚態度に不可欠な要素は、
自分の思い・考え・感情を混ぜず、そのものをありまま見る・聞く。知識・経験・学説・実績なども全部棚上げする。つまり、真の客観・零位。

△修料阿法∀辰傾腓┐觴分になること。

]辰傾腓Δ砲蓮∪茲此△匹鵑覆海箸任眩把召砲△蠅里泙泙鯤垢韻襦△箸いΔ海箸必要。聞くことが研鑚の出発点だが、あくまで出発点であって、聞けるだけでは研鑚になるものではない。

以上は一つの見方だが、研鑚に至るまでの段階等を自覚する必要がある。
自分は、どの段階か、何を目標にして、何を意識して、どのように暮らしていくか。

Category: < 研鑽の理 > | 2005.06.24 Friday 08:17

Re: 東京でも研鑽会したい

研鑚会には、研鑚会にしていける人が必要だから、研鑚会をやるには、自分が研鑚会にしていける人になるか、研鑚会にしていける人を連れてくる必要がある。
その要素を欠いて、研鑚会と呼んで開催しても、研鑚会にはならない。
多くの人が、この認識が非常に低くて、研鑚会にならないに決まっているような体勢で、研鑚会と称して、やっていることが多々ある。

毎週やっている夜の研鑚会で、今夜は、その課題について検討した。
研鑚会にしていこうとする意欲と適性のある人を対象に、研鑚体得のための2〜3ヶ月間のコースは設けては、どうか、という案です。

研鑚のない営みは一切無効、といえるくらい研鑚の必要性が徹底的に腹に落ちている人で、検討して実現したい。
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