BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― アーカイブ: 2005/04 ――
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Category: < 人 間 理 > | 2005.04.30 Saturday 07:51

本当の人間 ⇒ 研鑽人種

)榲の人間 −−→ 感人種  ∨榲の人間 −−→ 研鑽人種

 感人種 ←−− 本当の人間 −−→ 研鑽人種

 純粋無垢な本当の人間(真の人間)で誰もが生まれてくる。
 人間も動物の一種だから、観念あり、感情あり、秀でた頭脳があるから、情報の蓄積・加工・発案など、知的能力を備えている。
 どんな動物にもある、過去に得た蓄積情報から、予測類推する学習能力。これがあるから自らの頭脳によって、円滑に行動できる。
共同主観ができるのも、言葉で会話できるのも、この学習能力があるからで、幼い頃から体験を積んで、自らの中に形成されていく。
 他の動物でも毎日、同じ時間に餌を与え続けると、その時間になると餌があるという観念ができる。簡単にいうと、このような情報活用能力。

)萋、同じ時間にあるから、今日もあるのが「当然だ」とする人間の観念。自分が見た・聞いた・思った事は、他の人もそう思っている筈だ、とする人間の観念。 これが我執の元かな? 感人種の始まりかな?

∨萋、同じ時間にあっても、次もそうなるとは限らない、自分はこう思うが他の人はどうだろう、と考え観察できる知能を持つ人間。これは、現状から比べると、かなり高度な頭脳の働きといえるのかもしれない。

 本当の人間のままでも、固定し易く主観主体になり易い観念というものを具えた動物、人間。
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 研鑽が備わってこそ、無固定・客観の知的動物が実現する。
 或いは、本当の人間であり続けること自体、無固定・客観の証しかもしれない。

Category: < 人 間 理 > | 2005.04.28 Thursday 07:50

本当の人間

本当の人間になると、おかしな事は起こらない。毎日、仲良く楽しく愉快に暮らせる。
本当の人間を知らない。本当の人間を難しく考えている。だから、本当の人間を本気で知ろうとする気が起こらない。
本当ということはシンプルで簡単なことで、本当の人間というのも簡単で解り易いもの。
本当の人間になると、いつも清清しく、微笑んでいられる。

何かすること、何かしようとすることは、間違いではないのだが、何かしようとするから、清清しさが失われる、微笑んではいられなくなる。
何もせず、何にもりきまずにいれば、清清しく微笑んでいられる。
だがね!、これが、なかなか、何もせず、何もりきまず、これができないのが多い。
何か力を入れてやろうとするから、清清しさが失われる、微笑んでいられなくなる。本当の人間でなくなる。

本当の人間でなくなるようなこと、いくらやったって無効!!
「でも、何もやらないわけにはいかないだろ!」という声が聞こえてきそう。

何かやるのは間違いではないけど、やるなら清清しく微笑んでやれる本当の人間でやろう。
本当の人間にならないで、清清しく微笑むのは無理があるよ。

でも、やっぱり、本当の人間を知らないことが最大の原因だと思う。
それさえ知れば、「あっ今、本当の人間でないなっ」と気付いて立ち還れるもの。
易しい、易しい、本当の人間になろう。

Category: < 精神革命 > | 2005.04.22 Friday 07:49

ある ない

「無い」のが当たり前で、「無い」のが本当で、「有る」のはおかしい・・・

人間なし、生命なし、肉体なし、愛なし、情なし、SEXなし、伴侶なし、親なし、子どもなし、物なし、お金なし、・・・
言わない、考えない、思わない、約束守らない、働かない、動かない、しない、やらない、仲良ししない、けんかしない、・・・
みんな「無い」で当たり前だけど、言葉ではなく、「理」というか、人間の関与できないもの。
赤ちゃん誕生 嬉しいな。でも足がない手がない・・・と悲しむ。
「親がない」「愛がない」なんて実際あり得ないけど、「有る」ことを当然とする人間の観念は不要。
「〜ない」と云っても何かが「ある」状態を云ってる場合あるから、言葉の「ない」じゃないよね。

物理的に可能なこと「できない」とか、「してはならない」「しなくてはならない」は人間の独走観念で、我執と呼んでいいと思う。
言えない、聞けない、人殺せない、・・・は、我執・・・。
  地下鉄の線路に人を突き落としたというニュース「よくそんなことできるなあ」
  俺にはできない・・・これ我執。

「なんでもできる」「何をしてもよい」「何もしなくてもよい」・・・当たり前のベース
「できない」「してはならない」「しなければならない」・・・・・・人間の頑固独走観念。
言わない、聞かない、働かない、殺さない、・・・当たり前のベース
言えない、聞けない、働けない、殺せない、・・・我執

でもね、見ない、聞かない、というのは、当たり前の「ない」か、どうか。
目かくしする、耳に栓をする、という行為が「有る」ことによる場合が多い。
つまり、見ない、聞かない、も当たり前の場合と、我執の場合がある。
「ない」といっても、理に即した自然当たり前の状態と、我執観念の「ある」上で「ない」といっているのと二通りある。
違いは、その人の中身、真なるものか、どうか・・・。

まあ、いずれにしても「ある」のが当然とする人間の独走観念が不幸を作っている。
はじめは、無かったのだから、有り始めた頃は、少しでも有ることの実感があるが、それに馴れて、上げ底になって、有るのが当たり前になって、「ない」ことを不満に思うもの。

Category: < 一体の理 > | 2005.04.20 Wednesday 07:48

一体の方向・・・

昨夜の研鑚会で「一体の方向」というのを出してみた。「一体の方向」とは・・・
人間世界の究極の姿は「一体」で、そうなるまでは、紛争や貧困は絶えないと思う。
だから「一体の方向」とは、遠い遠い先に的を置いている。でも「一体」に随分近い人も沢山いる。

「一体」とは囲いや隔てなく凡てと溶け合った状態。
口に唱え頭で思う「一体」ではなく、実質その人自身がどれだけ「一体」か、ということ。
テレビでも新聞でも、どんな人を見ても、どれだけ「一体の人」かな。どれだけ「一体の方向」にある人かな、と思う。
研鑚会に来ている一人一人は勿論のこと、エコサウンド・スリーシー・ひまわり会・つくしんぼ 等々、凡ゆる活動は「一体の方向」のものの筈。
道行く人、接する人、みな「一体の方向」で接したい、処したい。
仕事が順調に進んで良かった、長年の願いが叶って良かった、でも、その人の「一体の方向」というのは、どうだろう。
「一体の方向」とは、その人が好むと好まざるに関わらずだよね。言い換えれば「真の幸福」でもいいし「真の人間」とも言えるね。

昨日、ある人が現状では不便だと思うことがあって「このように変えたい」という話があって、はじめは「ああそうか」と聞いたけど、「でも、不便が解消して、それでどうなん?」って思った。
日常いろいろな価値観(実は常識観)を基準に考え行動していることが多いと思うが、「一体の方向」が確定すると、それに適うものか、どうか、という課題が、いつも浮き彫りになると思う。
「真実の世界」は、真実か、どうか、という価値観、っていうかな。思い為すことの判定かな。

あの人も、この人も、どうしているかな?幸せになって欲しいな?
こういうものが湧いてくる元は、親愛の情だと思うけど。情だけだと幸福感に終わるよ!!
「一体」というのは、ほんわかあったかい情の世界のように思われがちだけど、
「一体の理」に即するというのが本意かな。そこからくる「真愛の情」かな。
一人一人が「一体の世界」の「一体の人」になる方向。
旧知の人の方向、近所の人の方向、・・・地球上の全ての人の方向。

Category: < 世界革命 > | 2005.04.16 Saturday 07:47

10年後へ

研鑽の現象化をキッカケに、それに関心をもつ人が現れ、研鑽に触れ、体験する人が増えるように・・・
その為に、研鑽の現象化としての活動や組織や施設などが効果を発揮する。
いくら、羽振りがよくて、繁盛して、有名になっても、研鑽の顕われでないものは無効。
研鑽の顕われでない活動は、やる意味がない。
だから、研鑽を実践する人、研鑽の実現が第一。

各地に研鑽が実践され、研鑽会が実現するために、
「研鑽会を研究するところ」と「研鑽会をやる人を養成するところ」・・・その充実。
各地からの研鑽の実現に心する人達の拠り所として。

今までの世の中は、研鑽のない顕われ、
新しく産み出そうとする社会は、研鑽の顕われ、
研鑽のない活動は、あえて今更やるまでもない。
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