BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― アーカイブ: 2005/02 ――
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Category: <無所有一体へ> | 2005.02.25 Friday 21:37

6.「無所有一体」社会への胎動期 1960年

前にも述べたように「無所有」とか「一体」という表現は、山岸会の専用語でもなく、他でも用いられる言葉だが、ヤマギシズムでいう「無所有一体」を大まかに云うと、凡ゆるものが誰のものでもない、隔てや囲いなく自由に誰が使ってもよい、怒りや争いなく凡てが仲良く溶け合った世界。
この「無所有一体」世界を実践し、無所有一体の人、無所有一体の生活、無所有一体の社会、実現を目指した。
「無所有一体」を実践しようと志す人たちが集合した生活の場が、三重県伊賀町の春日山だったので、「無所有一体」を実践するということは、春日山のような生活をすることだ、との印象が広まった。
いろいろな体験を経て「無所有一体」研鑽が深まるにつれて、「無所有一体」とは財産を処分して出資したり、一ヶ所に集まって生活することではない、ということが明らかになってくる。
財産を処分したり一ヶ所で集合生活するのは「無所有一体」世界を生み出すための試験・実験的行動とも云えようか。それは、実験室での試験管的「無所有一体」の実証・検証とも云えるのかもしれない。
目指す世界は、全ての人が仲良く豊かに幸福一色で永遠に繁栄する社会だ。
世界中の何処でも誰でも行なえる普遍性のある万人に迎え入れられる社会の実現だ。

春日山のような生活体は「無所有一体」になっていくための方法・手段の一つかもしれないが、財産を処分したり住まいを移さなくとも、何処ででも現状そのままで「無所有一体」を実現する方法がある筈。
それは「無所有一体」の人になっていくような研鑽の機会と「無所有一体」生活になっていくような仕組みや運営。
春日山での体験・実験を通して「無所有一体」を実現する「人の要素」と「社会的要素」が明らかになってきた。

知らず知らずの内に人々の中に宿った価値観とは厄介なもので、社会通念 常識観念は共通観念となり、固定観念 頑固観念となる。その価値観に合致するものは賞賛され評価されるが、その反対のものは烙印を押され拒絶される。
それは、外見上の一時的な現象面を捉えて判定する根強い価値観である。
例えば、大きく広がり勢い盛んに繁盛しているものは「成功」といい、その反対の場合は「失敗」という。「成功した」とされるものは評価され有名になる、「失敗した」とされるものは評判が下がり批難されたりする。
当時の春日山の生活体も、一般的な「成功」を求める人から見たら、失敗の連続であり、「あれはダメだ」というだろう。実際に春日山に生活する人数は当初の半数以下になった。
目的は、豊かになって繁盛することでもなく、周囲から立派だと評価されることでもない。
そこに集まった人の中には、さじを投げた人も多くいたかもしれないが、小さくとも「無所有一体」実現・実験の成果・手応えから確信を得た人達がいたことだろう。

「研鑽」があるから周囲社会の価値観に拘泥しない。流されない。本筋から外れない。
「無所有一体」がうまく行っているとか、失敗したとか、「ヤマギシズム」は素晴らしいとか、ダメだとか、見た目からの常識観では判定できないのではないだろうか。
みんなが満足しているから正しいとか、不満があるのは間違っているからだとか、一概には云えないだろう。
その土地、その時代で、人々の価値観は変わっていく。その価値観に合わせた一時的成功や満足感を、いくら積み上げて行っても、それは砂上の楼閣であって、永遠に揺るぎない真の幸福のみ溢ぎる世界には届かない。
物が多くても少なくても囲い合いも奪い合いもない世界。
どんな事態にも争いなく仲良く溶け合って協力し合う世界。

「無所有一体」の本質に迫るときがきた。

1960年 ヤマギシズム生活実顕地、別名「金のいらない楽しい村」という表現で、「無所有一体」社会のあり方や、実現するための具現方式が出る。

未完

Category: <無所有一体へ> | 2005.02.25 Friday 21:36

5.「無所有一体」生活の実験的段階 1958年〜

所有する物が何もない状態、自分の家もない 自分の土地もない 自分の財産もない 身軽さ 気楽さ 自由さの中で、志を同じくする多くの人と共に生活する。
宿舎を建て、食堂や風呂をつくり、みんなで仕事をしながら暮らしを作っていく。
「無所有一体」の生活、「無所有一体」の社会は、従来の組織運営や社会機構とは全く異なる、かつてない新しい営み。
外見は、共同生活・共同事業を営む共同体のように見えるが、共同や共産ではなく、「無所有一体」をやろうとした。
分配や割り当てがない、個々に報酬がない、子供のための生活の場を設けて子供の係を置いた、仕事は分業制、生活面もいろんな役割を手分けしてやった、委し合いの係役制で長や上下がない、働く人も働けない人も差別がない、・・・・・などなど具体的な事例を数え上げれば切りがない。
数百人もの人が一ヶ所に集合して、個々に持たない暮らし、みんなで話し合って進める暮らしを実践した。
一般常識的な見地からは、全くかけ離れた現実だが、これも全財産を放して「無所有一体」をやろうとする人たちだから、できたのだろう。

この生活体は順調に進んだわけではなく、間もなく周囲から非難・危険視され叩かれた。また物質的にも相当窮乏した。そういう事態に至って「もう、かなわん」と離れていく人と、「これからが本番」と結束を固める人達とがいた。

同じ目的の下に集った同志だが、事態が変わると離れていく人と、より深く親しくなる人とある。
「無所有」か「無所有でない」か、「一体」か「一体でない」か、順調に進んでいる時には見えなかったものが、いろんな事態に直面することによって現れてくる。事が起こる度に「無所有一体」か、そうでないかが試される。
利害や思い考えの一致で寄る「共同」は、一致しなくなると寄る意味がないから離れる。
「一体」は、どんな事態になっても決して離れ離れにならない。「一体」だから離れようがない。
「共同と一体のちがい」

いくつかの試練を経て、「無所有一体」生活は試されたと言える。
私物化しないで、みんなで物を使い合ってるからといって「無所有」とはいえない。
同じ場所で共に暮らしているからといって「一体」とはいえない。
離れて暮らしているからといって「一体でない」とはいえない。
「無所有一体」とは、一ヶ所に物を集めることでもない、一ヶ所にみんなで暮らすことでもない、ということが明らかになってくる。

「無所有一体」とは、何も持たない隔てのない溶け合った状態で、「無所有一体」生活をするということは、そういう状態の人になることだ。一ヶ所に物を集めたり一ヶ所に集合生活したのも、そういう状態になるための一つの環境面での方法であって、その形態を「無所有一体」生活というのではない。

いくら「無所有一体」に共鳴し、それを志した人でも、だからといって「無所有一体」の人になっているとは言えない。志を同じくする人が寄って、いろいろな方法を考案し、実験しながら、「無所有一体」の方向へ「無所有一体」の方向へと仲良く協力しながら研鑽していく暮らしにこそ、「無所有一体」生活実現の鍵があるのではないだろうか。

Category: <無所有一体へ> | 2005.02.23 Wednesday 21:33

4.初期 〜「無所有一体」行動に至るまで

ヤマギシズムに共鳴する人たちによって生まれたのが山岸会である。
ヤマギシズムは、研鑚方式によって、凡ての事柄について、決めつけなく本当はどうかと検べ続ける考え方である。
ヤマギシズムによって見出された理念についても、それは研鑽の過程のものであって、決めつけることなく、研鑚し続けるものであって、最終の結論ではない。

例えば、人間の本当のあり方について、研鑚していくと、
「怒り・憎しみ・我執・我欲など無いのが本当の人間の姿ではないか」とか、
「仲良く楽しく豊かに繁栄していくのが本当の人間の姿ではないか」とか、
「全ての人が生まれてから死ぬまで幸福一色であるのが本当の人生ではないか」とか、
「権利・義務・監視・罰則・所有・国境など無いのが本当の社会ではないか」等々の考えが出てくる。
そのような人間や人間社会の本当の姿の元になるものとして、「宇宙自然万物一体の理」「自然全人一体観」「無所有・共用・共生・共活の理」等々の理念が出てくる。
これらは全て研鑽の過程のもので、検べながら検べながら研鑚し続けるものである。
このような人間や人間社会のあり方や、その元になる理念が見つけ出されるにつれて、気持ちや考えが、その方向を指向し、実現・実践の行動に現れるのは、当然のことと云えるだろう。

1953年 山岸会発足
1956年 特別講習研鑽会開催
1958年 百万羽養鶏構想のもと、理想社会実現を志す山岸会会員が、全財産を持ち寄って、家ぐるみ家族ぐるみ、三重県に集結した。

山岸会では当初より「一体」ということは謳われ、会員に浸透していたと思われるが、それは、山岸会の中の一体とか、会員同士の一体ということでなく、ヤマギシズムの研鑽からくる「自然全人一体観」である。
「一体」という語は、他でも使われていると思うが、直接的に関わりのある物との間柄のことの表現だったり、思いや行動を同じくする人達の間柄を表現していることが多いのではないだろうか。
物との一体、人と人との一体を感じたとしても、場合によっては関係ない物と思ったり、関係のない別の人だと思うようになったりすることや、時には敵対するようになってしまうこともある。このような「一体」は、「一体」と呼んでいるのみで、部分的一体、一時的一体、便利一体、等であって、本当の「一体」ではない。
「自然全人一体観」の「一体」とは、いついかなる場合も、人類そのものが、この世界そのものが離れようのない「一体」であるという意味である。
「自然全人一体観」に立って見ると、どんなに広く大きい一体の組織や堅い間柄に見えても、気の合う人とだけ仲良くしたり、必要な物だけ大切にしたり、等々、隔てや囲いや枠があるものは「一体」ではないことが分かる。
共同体や協同組合や共産国など、その中では「一体」かもしれないが、外と内との隔てのあるものは、本当の「一体」ではない。一時的一体や部分的一体であることが判明する。

ヤマギシズムの研鑽によって見出されてくる「一体」は、どこにも一切の隔てのないもの。
この「一体」が明らかになってくると、人間同士が国境を設けて争っているのは勿論のこと、人と人が離れて反目している等々にとどまらず、個々に所有し、自分の物だとか、他人の物だ等と、囲いを固く守って暮らしていることの実態があらわになってくる。
どれだけ協力し合って、仲良くやっていこうとしていても、私有や共有の「所有社会」の中で「所有」を肯定して暮らしていては、本当の「一体」の世の中が実現しないということが分かってくる。

所有の無い世界、「無所有一体」の世界が見えてくる。
凡てを放し、何も持たない、楽さ、軽さ、自由さの中で、本当に人と人とが隔てなく溶け合って、永遠に仲良く繁栄していこうとする生き方が始まる。

「無所有一体の人間社会」を目指しての「無所有一体」行動に至る。
1958年 三重県伊賀町春日山にて、「無所有一体」を志す人たちが集結し、生活が始まった。

但し、「無所有」という言葉は、後に山岸氏から出たもので、この時期の資料や記録などには「無所有」の語は見当たらない。会員の中でも「無所有」という言葉は使われていないようだ。
「無所有」という言葉は出さないで、そういう実態に向けて進んでいたと思う。

つづく

Category: <無所有一体へ> | 2005.02.22 Tuesday 21:32

3.無所有社会について

「無所有」の語は、ここでの専用語でもなく、例えば仏教系の資料などでは度々お目にかかる。
「無所有」とは、主に人間の心境、いわゆる執われのない境地のことを云うことが多いようだ。
ここでも「無所有観念」という場合は、所有観念から解放された状態、所有が植え付けられる前の元々の人間の観念、我欲・我執のない状態などを指している。
今の世の中は、所有という制度を用いて、人と人との間を保ち社会を構成していると言っても過言でない程にまで、人心観念界に所有という概念は深く浸透している。所有観念が身に付くまでには、相当のエネルギーを要していると思うが、社会全体が所有を基盤にして動いているから、幼い頃から所有を教える特訓をすることが親の責務となっている。所有を知らない子供は親の責任となる。
「所有」という共通の概念を持ち、その「所有」を基盤にした社会制度を設けている。
「無所有」が、理に叶った人間の自然な姿、正しいあり方だとしても、それは、心境や意識や観念の状態のことであって、そこから「無所有」の人の営みとはどういうものか、つまり「無所有の人間社会」というものを考えてみたい。
前にも述べた通り、人間以外の動物世界は「無所有」であると思うが、人間には人間ならではの営みがあるので、人間が他の動物と同じように暮らせば「無所有社会」だというものではないと思う。人間には人間の暮らし方があるから、人間は他の動物のようには暮らせないと思う。前後するが、そういう論から、所有や権利・義務、法律・罰則なども、人間ならではの営みだと言う人も当然多い思う。
「無所有社会」とは、人間らしさを排除した自然原始的社会ではなく、所有や権利・義務、法律・罰則に依らない、それよりもっと人間らしい営みの社会である。
法律や罰則を設けなくても、仲良く円滑に安定した社会生活が営めれば、それを嫌がる人はいないと思うが、それが出来ないから法律や罰則が要るのだろう。同様に、互いの欲求や必要を認め合って、仲良く適切に使い合えれば、誰々のものだから勝手に使ってはいけない等と監視し合って所有を守らなくても安心して暮らせるだろう。
そういう人間社会は無理なのだろうか。

所有して囲う必要がない社会。誰のものでもない、誰が使ってもよくて、奪い合いや争いが起こらない社会。お金や権力が必要なく、物も人も欲しているところ、必要とされているところへ、流れるようにスムーズに動いていく。人の心や意識が「無所有」であるだけでなく、社会の機構・制度も「無所有」に基づいたもの。

このように「無所有」に基づく人間の営み、「無所有社会」を考えてみると、「無所有」という言葉の持つ意味、例えば「執着・我欲・我執がない」等の他に、大事な人間的要素が浮かび上がってくると思う。
それは、ひとことで言うと「人間観」かと思う。つまり、人間性とは何か、人間とはどういうものかを知ることだとも云える。
昔から、性善説とか性悪説とか云われるが、どちらでもなく、人間とはどういうものか。放っておいたら、何をするか分からないのか。とても悪いことをする人がいるから、囲いが要る、取り締りが要る・・・・、と罰則を設けている。悪いことをする人向けの社会とも云える。
人間は、そういうものを設けないと、他を侵したり独り占めしたりするのだろうか、法律や罰則もなく、奪い合い争いもなく、協力し合う人間社会を研究したいと思う。
助け合い、協力し合い、譲り合い、贈り合いを否定する人はいないと思うが、所有や罰則なく、それだけで人間社会がいけると思う人は少ないかもしれない。

「やはり、所有や罰則は要る」としている既成観念を外して、零から人間を見直してみると、「所有や罰則の要らない社会」の要素が見つけ出されて浮かび上がってくる。

Category: <無所有一体へ> | 2005.02.13 Sunday 21:30

2.無所有について

ここでいう「無所有」とは、「所有」という概念がが無いという意。
不所有・非所有・所有しない・所有物がない、等ではなく「所有」そのものが無い。
「所有」は人間が作り出した概念で、他にも、権利・義務・道徳・法律・規則・お金・国境、等々、人間が作り出したものによって、今日の人間社会は構成され、それに基づいて暮らしている。
これらは、人間が作り出したものだが、あたかも実際に存在するものであるかの如く捉えられていて、所有やお金や規則などの無い人間社会など考えられない程にまで、強く思い込まれている。
「無所有」ということを言葉のイメージから、所有物が無い状態と思う人がいるが、物が無く一文無しの人でも、何かを与えられて自分の物にしたり、物は無くても自分の体は自分の物だとしている場合があるから、いずれの場合も「所有」がある。
自分の物は何も無いという人達が、そこにある物を、誰も自分の物とは思ってなくても、「私達の物」とか「みんなの物」としている場合も、そこには「所有」がある。
「無所有」の人、暮らし、社会などをイメージすると、今の資本主義の私有財産制ではないことは分かるが、そうなると、共産主義社会や共同体的なイメージを抱くかもしれないが、いずれの場合も、個人所有に替わる集団所有・共同所有であって「所有」には変わりがない。

動物が獲物を奪って争ったり、乳幼児が物を取り合って喧嘩したりするが、「所有欲」がある訳ではない。本能的欲求や、欲しい使いたいという思いから、奪ったり、けんかしたりするが、その外見や形態を指して「所有」があるとは云えない。
「所有欲」や「権力欲」など、自然な欲求のように云う人もいるが、その元に「所有」とか「権力」という人間が作り出した観念がなければ、「所有欲」や「権力欲」はあり得ない。
動物の世界の外見や形態を見て、「権力」や「所有」だと思う場合、それは人間寄りの見方・受け取り方であって、「所有」とは何か、「権力」とは何か、を明らかにすれば、動物の世界には、そのような概念は通用しないことが分かると思う。

動物の世界は「無所有」である。「所有観念」が着く以前の乳幼児は「無所有」である。
人間の営みには、「今欲しい」「今使っている」「後に使うために用意する」「何かに備えて必要以上に用意する」「蓄える」「保管する」等々は当然あるが、そこに「所有」のない状態。
つまり「私の物」とか「みんなの物」とかではなく、誰のものでもない。
「これは○○のもの」だから「△△は使ってはいけない」と決めているのが人間の所有観念。
動物は無所有だから、所有観念は通用しない。○○のものだから、△△は使ってはいけない、ということが通用しない。通用するのは所有観念のある人間だけ。
そういう観念づけをしなければ、元々、どんな物でも、誰のものでもない、使ってはいけない物など何もない、使ってはいけない人などいない。
誰がいくら作って用意しても、誰がいくら蓄えても、誰のものでもない、誰でも使うことができる。
誰かが大変な労力を投じて作った物でも、作った人の物でもない、材料を提供した人の物でもない、誰のものでもない、誰が使ってもよい。

「無所有」だから、使ってはいけない物、使ってはいけない人、が何もない。
空気を例にとると、空気を使ってはいけない人などない。
「生きる権利があるから」なんていう後から付けたような理屈は要らない。
「権利」は人間が作ったもの、権利なんて無くていい、誰でも使えるのだから。
「生きる権利」なんて言うなら、腹をすかした人が店にある物を取って食べても咎めることはできないだろう。
「生きる権利」なんて言うなら、人間の都合だけでなく、どんな動物でも殺して食べるなんてことはできないだろう。
「権利」なんて要らない。

空気のように凡ゆる物を誰もが使えるのが「無所有」
人間以外の世界は、そうなっている。
奪い合い、争い、独り占めが起こるから、混乱を避けようとして、所有を設けたのかもしれないが、所有を設けても、奪い合い、争い、独り占めは絶えない。
むしろ、幼い頃から所有を教え植え付けられ、所有拡大指向が蔓延しているから、所有欲求は際限ない。
つまり、所有があることによって、奪い合い、争い、独り占めは激化している。
動物の場合、食べるため、生きていくために奪い合い争うことはあるかもしれないが、所有を拡大するために争うことはない。
動物の本能的欲求と、人間の観念的所有欲とは、ハッキリ区別する必要がある。
つづく
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