BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― < 研鑽の理 > ――
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Category: < 研鑽の理 > | 2006.04.20 Thursday 21:17

研鑽会についての私見

研鑽会を設けて、研鑽会を実現するには・・・。
どうすれば、研鑽会になるか、という課題が出ることがあるが・・・、
それには、その前に、先ず、「研鑽会」というものを知ること、
つまり「研鑽会」というものを、どう認識しているか、が重要だと思う。

「研鑽会」=「精神革命」であり、「研鑽会」=「世界革命」であり、
「研鑽会」=「具現方式」であり、「研鑽会」=「社会活動」と思う。

「研鑽会」をした後に、何か活動することで、人や社会が変わるのではない。
何かの活動をするために「研鑽会」をするのでもない。

「研鑽会」の中で怒りが消え、執われが外れ、この世の成り立ちや自分を知る。
革命は「研鑽会」の中にある、手足を動かして働くことが幸福実現の道ではない。

「研鑽会」の後の活動に、革命運動や社会づくりがあると思っているとしたら、
「研鑽会」というものの位置付け・認識がまるで異ってくる。
従来の「研鑽会」と呼ばれるものは、ずっと、それをやってきたのではないか。
何か活動をするための「研鑽会」。
「研鑽会」の後に活動がある。だから「研鑽会」をする。
「研鑽会」ばかりしていても、何もしていることにならない、そういう「研鑽会」
それは、やはり「研鑽会」よりも、手足を動かすことに人間の幸福があるとする考え方の現われと思う。

話題を「研鑽会の実現」に戻すと・・・、
どうすれば、研鑽会が実現するか、という方法論よりも、先ず、「研鑽会」をどのように認識しているか。
つまり「研鑚会」というものを知る人の存在が不可欠と思う。

「研鑽会」を知るというステップが先ず要ると思う。それを欠いては、研鑽会の実現は無理と思う。



次に、「研鑽会」を知る人へ。

ヤマギシズム社会の構成は、研鑽会と構成員である。
構成員の中の十人のメンバーとは、研鑽会をする人だと思う。

 理想社会の実現に傾倒する人・・・
 四六時中それのみに没頭出来る人・・・
 敲かれようが真実に生き通せて・・・・
 無くなることを当然と心の用意が出来て・・・
 幸福な人生を送れるように仕向ける役割をする・・・
 逆コースを取らなくて、円滑に幸福生活が続くよう、補佐の役目を果し・・・
 自分勝手に、幸福人を造り護る活動行為をしている間の人・・・
 などなど、
「十人のメンバー」「要約」に書かれてあることは、「研鑽会」のことばかりだと思う。
 安全な道路を造り、街路樹を植え、香る花を蒔いて道標を立て、各種の交通機関を提供する・・・
(などなども研鑽会でのことと思う)

「研鑽会」の中に職場を観る・社会を観る・世界を観る・・・人。
オールメンバーとは不眠不休で働く人というようなイメージではなく、研鑽会という知的革命に全身全霊打ち込める人のことだと思う。
オールメンバー(十人のメンバー)が居なければ、この社会は成り立たない。
オールメンバー(十人のメンバー)だけでも、この社会は成り立たない。

Category: < 研鑽の理 > | 2005.06.25 Saturday 08:18

研鑚について

研鑚は、研究・検討とは異なるもの、あえて「けんさん」という言葉を用いる所以。

じ鑚は、真の科学ともいえるし、真の哲学ともいえる。真の科学的・哲学的要素を欠いては、研鑚とはいえない。

それから、研鑚する研鑚態度に不可欠な要素は、
自分の思い・考え・感情を混ぜず、そのものをありまま見る・聞く。知識・経験・学説・実績なども全部棚上げする。つまり、真の客観・零位。

△修料阿法∀辰傾腓┐觴分になること。

]辰傾腓Δ砲蓮∪茲此△匹鵑覆海箸任眩把召砲△蠅里泙泙鯤垢韻襦△箸いΔ海箸必要。聞くことが研鑚の出発点だが、あくまで出発点であって、聞けるだけでは研鑚になるものではない。

以上は一つの見方だが、研鑚に至るまでの段階等を自覚する必要がある。
自分は、どの段階か、何を目標にして、何を意識して、どのように暮らしていくか。

Category: < 研鑽の理 > | 2005.06.24 Friday 08:17

Re: 東京でも研鑽会したい

研鑚会には、研鑚会にしていける人が必要だから、研鑚会をやるには、自分が研鑚会にしていける人になるか、研鑚会にしていける人を連れてくる必要がある。
その要素を欠いて、研鑚会と呼んで開催しても、研鑚会にはならない。
多くの人が、この認識が非常に低くて、研鑚会にならないに決まっているような体勢で、研鑚会と称して、やっていることが多々ある。

毎週やっている夜の研鑚会で、今夜は、その課題について検討した。
研鑚会にしていこうとする意欲と適性のある人を対象に、研鑚体得のための2〜3ヶ月間のコースは設けては、どうか、という案です。

研鑚のない営みは一切無効、といえるくらい研鑚の必要性が徹底的に腹に落ちている人で、検討して実現したい。

Category: < 研鑽の理 > | 2005.04.12 Tuesday 07:43

懸案

研鑚会が誕生して50年以上になるが、研鑚会は普遍化・定着したと云えるだろうか?
研鑚会と呼ばれるものは、出来たり、消えたり、維持継続したり、している。
研鑚会は「研鑚の実現」にかかっている。私たちがやろうとしている社会運営、社会生活も「研鑚が実現」しているか、否か、にかかっている。
「研鑚の実現」を「よくわからない」として、ウヤムヤにしていては、「研鑚会」は決して実現しない。
今一度、運研・地区研・係り研などに、「研鑚会」という名称を用いるか、どうか、検討を要する。
「研鑚会」と称している機会、ひとつひとつに対して「それは研鑚会と呼べるのか」を、問うていきたい。
今、漠然としているから、漠然としたままにしないで、「研鑚会」と名乗るからには、「研鑚会」という内容のものを開催するという、意志が必要と思う。

1959.10.3 愛和より
『研鑽の理提案は私達だったとしても、本当の研鑽の理を明確に実現化し実用化し、活用出来るようにこの世に産み出したのは生命がけの業績だったと私は思っています。』

研鑚に出会って何十年、何百回もの研鑚会に出席している人たちが、「しらべる」を目的に集まっても、
研鑚会にならない、研鑚が実現しない、実用できない、としたら何故か?
このまま次代へ研鑚を引き継ぐこともなく、消滅させてしまうのか?

『新しい道に乗った人は、その余得のうちからの一部を、次の道路の建設に協力し、汽車等の維持をすることです。』
心ある人で、研鑚を実行し、研鑚を表して、研鑚を広め伝えようとする研究実践活動を・・・・。
まずは 研鑚の講習会 やろうかな?

Category: < 研鑽の理 > | 2005.04.10 Sunday 07:43

原因に到達するまで・・・

1.無自覚・無意識の間違い・道外れ、というものは多いと思う。
  間違いを間違いとも思わず、むしろ正しいとさえ思われていることもある。
  病身の診断のように、精神的間違い・社会的間違いを見出し、認識することが先決。

2.こういう姿が本当ではないか、こうするのが本当ではないか、という、理に適ったもの、正しきもの、を知る。

3.本当はこうじゃないか、これは間違いじゃないか、・・・と、そこまでは行けても・・・・、そこまで、どまり。
  分かっちゃいるけど、やめられない。分かっちゃいるけど、どうすればいいんだ?。ということになる。

4.なぜ、間違い・道外れが生じたのか、その原因を探求する。
  原因を知らない限り、対症療法はできても、間違いは無くならない。
  「原因を探求する」・・・これは本当に未開の分野のような気がする。
  原因を知ると、簡単に解けるような気がする。
  原因を知らないで、解決しようと、あの手この手、ああでもない、こうでもないと、右往左往、彷徨っている。
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