BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― < 研鑽の理 > ――
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Category: < 研鑽の理 > | 2008.01.27 Sunday 18:00

(2008.1.26) 発表内容の骨子

社会と人間
人間がより良く生きるには社会の要素が不可欠
社会と人間の密接な繋がりに異論を唱える人は少ないと思うが、
果たして、実際の日常の生活行動、思考や発想は?
社会のことをおいておいて、より良く生きようとしてるのではないか
人間のことをおいておいて、良い社会にしようとしてるのではないか
人間が変われば社会も変わるとの理を唱えて(これは間違いではないが)人間の内面にだけ力を注いでいられるのは、この密接な繋がりを実は知らないからだと思う。

社会観と人間観
それは、人間というものの捉え方からそうなっている
それは、社会というものの捉え方からそうなっている
周囲から受けたもので形成されている社会観・人間観
人間をどう捉えているか、社会をどう捉えているか
自分の中にある人間観・社会観に目を向ける。
それを欠いていては
より良く生きよう、良い社会にしようとしても、自分の中の人間観・社会観からのものにすぎない。
自分の中にある人間観・社会観に視点が向くと、
実際に、人間とは、社会とは、本来・本質は? との指向が出てくる

人間について
人間とはどういう生き物か
他の動物との違い・・・脳の働き
他の動物と同じように、体験・記憶・情報蓄積・それらを活用して生活行動する。
更に、人間の脳には・・・
 固定断定する働き と 無固定探究する働き


自分を知る(自覚を養う)研鑽に始まる人間の脳の働きと、固定停滞のない人間生活、ひいては、それを支える(無固定探究)社会システムとが、密接不離の繋がりで実現していく、一筋道が見えてくると思う。

Category: < 研鑽の理 > | 2007.10.12 Friday 03:00

研鑽とは

2009.5.19 研鑽とは を参照して下さい。

「研鑚」とは「キメツケのない考え方」である。ということを理解して頂くために、先ず「キメツケ」とは、どういうことかを解説してみます。

「決めたこと」 と 「キメツケ」
 人と人が暮らしていくために便宜上、物事を「決める」ことは多々あるが、そこに「キメツケ」があると、「決めたことを守るのが正しい」となる。法律・規則・契約・常識・道徳など、今の人間社会は「キメツケ」をベースに営まれているといっても過言ではない。

「記憶や記録・知識など」 と 「キメツケ」
 これらは、過去の行為の跡で人間が遺したものだから、事実そのものではない筈だが、そこに「キメツケ」があると「記憶や記録・知識など」にあることは事実だとしてしまう。

「意見や主義主張」 と 「キメツケ」
 これらは、「私はこう思う、こう考える」ということだが、そこに「キメツケ」があると、自分の意見や主義主張と異なるものは、受け入れなかったり、対抗したりする。


以上、3つに分類してみた。
要約すると、「決めたこと」「記憶や記録・知識など」「意見や主義主張」を基準にして、真偽や善悪を裁こうとするのは「キメツケ」があるからだと思う。

「人の物を無断で取るのは悪いことだ」とするのは、「人の物は無断で取るべきではない」という人間が決めたことを守るのが正しいと「キメツケ」ているからだろう。
報道や学説と異なることを言う人を「間違っている」とするのも、報道や学説が正しいとしているからではないだろうか。
自分の身に覚えのないことを事実のように言う人を「おかしい」とするのも、自分の記憶は正しいとしているからではないだろうか。

「キメツケ」のない考え方
 正しいかどうかは、法律や常識や道徳に沿っているかどうかではない。学説と合致しているかどうかでもない。多くの人が正しいと判定するかどうかでもない。
 「正しいかどうか」は、「正しいかどうか」である。
 事実かどうかは、記憶や体験や記録と合致しているかどうかではない。録音・録画があるかどうか、多くの証人がいるかどうかでもない。
 「事実かどうか」は、「事実かどうか」である。
 
 物差しで測ったから間違いないとしないで、物差しそのものも正しいかどうか、調べながら測っていこうとするもの。
 「決めたこと」「記憶や記録」「意見や主張」と合致していても、そのものが間違っているかもしれないから、「合致しているから良い」「合致していないから間違いだ」と決めないで、本当はどうか、正しいかどうか、事実実際はどうか、と調べ続ける考え方。
 研鑚とはキメツケを持たないもの、キメツケのない考え方である。

― 「キメツケのない考え方」の体得・研鑽の実現については別途 ―

2007.05.26 研鑽の実現を
2005.6 キメツケのない社会 etc.

Category: < 研鑽の理 > | 2007.05.26 Saturday 10:00

研鑽の実現を

ヤマギシズムの根幹は、「研鑽」にあると思います。
私どもでは、ヤマギシズムに代えて、「研鑽科学」という語を用いています。

山岸さんは、余命を知ってのことか、没する前の短期間に、実顕地と研鑽学校を出して亡くなった。
実顕地も、研鑽学校も、理念と云われている無所有も、一体も、ヤマギシズムから発したものだろう。だが、その逆は云えない。
つまり、実顕地が、研鑚学校が、無所有が、一体が、「ヤマギシズムだ」とは云えないだろう。
ヤマギシズムには、固定もキメツケも無いのに、ヤマギシズムでやろうとする人に固定・キメツケがないだろうか。

釈迦はキメツケのない人だったらしい。だが、周囲・後代の人にキメツケがある。
「釈迦はこう言った」とか「釈迦が言ったことは正しい」・・・と。

シャカは正直、教えもキメツケもしていない最も科学だと思う。
       :
弁証法はキメがないのに、やっている人達はキメがキツイ。

                    (1961.3.14 名古屋にて)

科学や研究そのものには、キメツケる要素はないが、科学や研究をする人にキメツケがないだろうか。
人間の考えは不確かなもので、「これこそは絶対に間違いない」と思ったことでも、ずっと先では、ひっくり返ることもある。
しかし、今日までの人間社会では、子どものころから、正しいとか間違いだとかを教えて、キメツケの訓練をし、その訓練した頭で、キメツケ裁きながら暮らしていく。良いこと、悪いこと、良い人、悪い人、・・・等々。
規則・法律・学問・等々、みなキメツケの上で成り立っている。社会そのものも取り決め・キメツケが無くなれば、混乱するとしている。
してはいけないこと、しなければならないこと、これは誰々のもの、・・・根拠があるとして堂々とキメツケている。
自分が直接見たこと、聞いたことも、教科書に書いてあることも、「事実だ」とキメツケられないのではないだろうか。
キメツケているという意識はなくても、深く強くキメツケが染み着いていて自覚がないことが殆どだろう。

キメツケの社会に育ち、キメツケの頭で、ヤマギシズムや釈迦に出会っても、「ヤマギシズムはこうだ」「釈迦はこう言った」とキメツケていく。

人間を調べ、人間の考えとはどういうものかを調べ、現状のキメツケ状態を自覚し、キメツケのない頭になっていくことによって、研鑚が始まる。
キメツケがなくなると、争うことがない。あれは良いとか、あれは間違いだとか、裁くことがない。
ヤマギシズムを実践するということは、研鑚を実現するということであり、
研鑚を実現するということは、研鑚する頭脳が実現することであり、
研鑚する人による生活行動からなる、研鑚社会が実現する。

Category: < 研鑽の理 > | 2007.03.19 Monday 20:00

学問と実験 ・・・ 「研鑽」

ヤマギシズムが世に出て、半世紀あまりになる。
ヤマギシズムは、イズムであり、考え方である、というが、
初期の山岸会の活動を「ヤマギシズム活動」と形骸化し、それを踏襲している。
ヤマギシズムとは何か? 研鑽とは何か? 実顕地とは何か? 無所有とは何か? 一体とは何か? ・・・と、個人的に問いかけを持つ人は少なくないと思う。
しかし、その問いかけは個人的な域を出ず、重要視もされず、研究や解明がなされないまま、呼称や名称は広く使われ、今日に至っている。

他の思想や宗教界でも、原典や教典を解明・解釈するための研究機関を設けている。

ヤマギシズムと呼んでいる組織や活動の「どこがヤマギシズムなのか?」
組織や活動の目的は、なんなのか? 果たして、その方向に進んでいるのか?
等々の問いを発してみると、ヤマギシズムと呼んでいる組織や活動を調べる以前に、もっともっと調べなければならない部分が浮き彫りになってくると思う。
そういう作業(研究)は、個々の思いつきや片手間では難事であって、確たる趣旨と方法を以って取り組まなければ出来ないと思う。


例えば、特講でやられている
なぜ腹が立つのですか。 ・・・をやれますか。 それは誰の物ですか。
等々が、人間革命にどう繋がるのか? どういう位置を占めるのか?
何々だから腹が立つ。  何々だからやれない。  これは誰々の物。
等々と、これらが解けたように見えても、それは一時的な開放感や、目新しい見方や捉え方に出会ったことによる感動であることが多い。
当然、繰り返せば、効きめは無くなる。
このように、一度しか通用しないものを万人の特効薬の如く重宝がって踏襲し、それ以降の本題である、「ヤマギシズム」や「研鑽」の解明がなされないまま、特講を受講した人によって「ヤマギシズム」や「研鑽」の言葉が広まり使われている。


人間にとって最も大切なのは、なんなのか?
人間らしい、とはどういうことなのか?
それを実現し、発揮するには?
   <内面的要素 と 環境的要素>
それを妨げているものがあるのではないか?
   <社会的要因、心理的要因、物質的要因>
妨げているものを取り除くには?
   <そこに主眼を置いた社会制度・機構・運営>
          :
本来の人間性、その人らしさが発露した人生の姿
          :
人みな快適に暮らせる、真の人生を営み得る社会組織


ヤマギシズムは、「真の科学」とも「総合哲学」とも云えると思う。
私たちが云う「研鑽科学」とは、そういう意味で、「ヤマギシズム」と同義語であるが、その実態が明らかになるにつれて、「ヤマギシズム」という呼称や固有名称は不要になり、研究・究明・哲学・科学の総称として「研鑽」の語を用いていきたいと思う。

解説 ヤマギシズム社会の実態(一) 山岸 巳
 ・・・の最初の項に以下の一節がある。
状勢の展開につれて、機を見て断続的に、具体的に、解説しましょう。理解ある協賛により、実践し乍ら完結出来れば幸いとします。
これは、「解説が完結出来れば・・・」とも読める。
私たちの活動は、
学問し、研究し、解明し、実験し、実践し、実証して解説する活動かと思う。
多くの有志・同志と共に、イズムを一貫して研鑽し、次代・後代へ引き継ぐ、それのみに生きられる歓びの中を生きています。

Category: < 研鑽の理 > | 2007.01.12 Friday 18:00

ヤマギシズムについて

研鑽科学によって、自ずと出てくるもの

 「人間本来の姿」と「それに適った人間社会」(易しくシンプルで明快)

 学説・知識・経験に捉われて、複雑になりがち、・・・研鑽科学できない

研鑽科学とは、

  「真理」と「人間の考え」と「現象」の分析、観察、そこからの研究
   ・・・真理に即応したもの・・・真実・・・人や物(や社会)

  ・真理・・・無現象・永遠不変の実在
  ・人間の考え・・・観念・脳(脳髄)の作用
  ・現象・・・事実・実際・事象・物象

  難しく考える必要のないもの、いっしょにしないで、分けて検べる
  研鑽科学できるか、どうかは、分けて検べられるか、どうか。
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