BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― < 研鑽の理 > ――
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Category: < 研鑽の理 > | 2009.09.23 Wednesday 00:00

『研鑽』について書いています。

しばらく前から『研鑽』というタイトルで書き綴っている。
きっかけは、今年の春、韓国から Yさんが会いに来てくれた時のこと。
2009.03.12の記事参照
そこで彼から聞いた話では、韓国と日本とは20年ほど差があるような感じで、1980年代に民主化とか学生運動とか新たな社会を模索する動きがあり、そこでヤマギシが注目され社会活動や思想界に多くの影響を与えたらしい。
それも、一段落しているらしいが、社会思想を模索する情勢はまだまだあるそうで、彼はヤマギシズムのエキスを翻訳して出して行きたいとのこと。
その後、7月と8月に韓国へ行って、彼と話し合ってみて、そう遠くなく、ここで「研鑽セミナー」や「内観コース」を実現できそうだなと感じた。
そうなった時、体系だった思想として『研鑽』を知る機会にもしていきたいと思った。

『研鑽』について書き始めてみると、「考え方」というだけなら個々の精神面のことにとどまってしまう。
思想性ある一貫したイズムとして、出して行きたいと思った。
そうして、「KENSAN for the World revolution」というタイトルが浮かんだ。
 第1章.研鑽という考え方
 第2章.研鑽--事実・実際はどうか
 第3章.研鑽--本来・本質・本当はどうか
 第4章.研鑽--正しきに戻す

最初、研鑽とは「キメつけなく本当はどうかと調べる」という定義で、3.までのつもりだったんだけど、どうしても、4.まで入れないと、思想とは言えないなーと、なってきた。
まだまだ途中で、読み返しても、拙いなぁ未熟だなぁと思うばかりですが、下手でもなんとか書いておきたいと思っています。
  ↓↓ 以下、目次です。

Category: < 研鑽の理 > | 2009.08.21 Friday 14:17

第2章 研鑽 ―― 事実・実際はどうか

 人間が物事を認識するということは、その人の中に形成された「捉え方」(認識のし方)によって、その人なりに捉えているということであり、つまり、自分が何かを認識するということは「自分なりの捉え方で捉えているとの自覚」が必要だと思う。
「事実・実際はどうか」
 これは難しいことでもなく、日常的に誰でも「事実はどうなんだろう」「実際はどうなんだろう」という関心や欲求が起こることはたくさんあるだろう。しかし、自分は事実を知らない、実際はどうか分からない、という意識のときには、疑問や関心があるが、いろいろ調べたり、確認したりすると、「事実はこうなんだ」「実際はそうなんだ」と、知ったつもり、分かったつもり、になってしまわないだろうか。
 どこまで調べても、いくら確認しても、「自分なりの捉え方で捉えているとの自覚」があると、自ずと「実際はどうなんだろう」という関心や知ろうとする欲求は尽きないと思う。
 1.言葉と事実・実際
 2.原因・理由と事実・実際
 3.人の言動と事実・実際
 4.社会と事実・実際
 5.自由・平等と事実・実際
 6.人間観と事実・実際
 7.人間の考えと事実・実際

Category: < 研鑽の理 > | 2009.08.13 Thursday 16:23

「研鑽という考え方」 つづき

 1.自分の感覚であるとの自覚
 2.自覚のない固定観念・キメツケ
 3.事実・実際とは
 4.過去の事実
 5.現在の事実
 6.観念上の事実化
 7.そうなっている社会 (固定する考え方の社会)
 8.良いこと 悪いこと
 9.教育が自覚のない人を作る
10.天動説的な意識 からの脱却
11.「研鑽という考え方」について

Category: < 研鑽の理 > | 2009.08.11 Tuesday 11:40

第1章 研鑽という考え方

 研鑽という言葉は、学問や技術を深く究めるという意味に用いられている。英語では、profound study と訳されている。
 私どもが用いる研鑽という言葉は、「研鑽する」という行為としての動詞的な意味もあるが、「研鑽という考え方」という意味も指している。それは、「研鑽できる状態」ともいえる。
「研鑽という考え方」「研鑽できる状態」があってこそ「研鑽する」ことができる、とでも言おうか。
ここでは、まず私どもが「研鑽」と呼んでいる「考え方」「状態」とは、どういうものかについて述べてみたい。
「固定観念」という言葉があるが、「固定する考え方」「固定の観念状態」は、研鑽とは逆の状態であり、研鑽とは、「固定のない考え方」「固定のない状態」とも言える。
「固定する考え方」があると、いかに深く探究しても、どこかで、「分かった」とか「こうだ」と断定する、固定する。つまり、探究が止まる。
 知った、分かった、できた、それは正しい、それは間違いだ、これが事実だ、これが本当だ、これが真理だ、・・・・等々のように断定するのは「固定する考え方」があるからだと思う。
「研鑽という考え方」は、「研鑽できる状態」と、前述したが、「固定する考え方」は、「研鑽できない状態」と言えるだろう。
 また、そう考えると、「研鑽という考え方」は、いかに深く探求しても、「固定できない状態」と言えるのかもしれない。
「固定のない考え方」「固定のない状態」では、何も決めることができないかというと、そうではない。物事を決めても、判定・判断しても、結論や結果が出ても、そこに「固定のない状態」。いつでも見直したり、検討したり、変更できる状態。

 人の世の現状は、「固定する考え方 一色」と言いたい程、「固定する考え方」が主流をなしていると思う。また、それ故に、「固定する考え方」をしているという自覚のない人が殆どだと思う。
 喧嘩や争いが起きるのも、人を咎めたり裁いたりするのも、「固定する考え方」「固定観念」が無ければできないことだろう。
 人間が決めたことを固定し、それを守ろうとする。そうすることが、正しいことだ、良いことだと(固定)されているから、「固定のない状態」などは、とても考えられない。そんなことをすれば、世の中が滅茶苦茶になってしまうと思う人も多いだろう。
 これは、「固定のない状態」というものを知らないから想像もできないのだと思う。「固定する考え方 一色」の周囲環境の中で生まれ育ち、幼い頃から固定することを身に付けてきたからだろう。

 冒頭に述べたように、研鑽とは深く探究するという意味である。研鑽は、有能な学者や技術者だけのことではなく、誰にも具わっているであろう、幸福を希い、物事の本質や健康正常な真の姿を知ろうとする自然な知的欲求の発露でもあると思う。
 ここで繰り返し「研鑽という考え方」「固定のない考え方」を強調するのは、今の世の中では「固定する考え方」を身に付けてしまい、人が歳を重ねるにつれて、幼い頃の自然な知的欲求が失われていると思うからである。
 人間は、固定の観念状態にもなり得るし、固定のない研鑽状態にもなり得る。
「固定のない状態」「研鑽という考え方」について、順を追って述べてみたいと思う。

 つづく

Category: < 研鑽の理 > | 2009.05.19 Tuesday 09:00

研鑽とは

研鑽について
人間は、物事を捉えたり解明したりできる優れた知能を具えています。その一方、個々により、時と場合により、同じ物事についても、様々な見え方、聞こえ方、感じ方などをします。ところが案外、この認識が不十分なために、自分が見たり聞いたり捉えたものによって、事実・実際がこうだと思いやすく、大勢の意見が一致すると、その思いは更に強くなることが多いでしょう。
一人の、或いは大勢の捉えたもので、こうだと思ったことでも、あくまでもそれはその人が捉えたものであることを自覚して、実際はどうだろう、本当はどうだろうかと、固定、断定、キメツケなく、検べていこうとする態度、どんな意見にも耳を傾けようとする態度が必要だと思います。このようなキメツケのない態度で、事実・実際、本当はどうだろうかと、検べていこうとする考え方が研鑽です。

研鑽によって
人の行為についても、現象面の目に見える言動よりも、その言動に至るその人の心の状態や考え方などに重点を置くようになります。人の言動やあらゆる事象について、その背景や底にある内面・真相・原理を知ろうとする知能の働きともいえるでしょう。
誰のどんな行為や考えも、裁いたり、咎めることがないから、対立や争いもなくなり、自然、人と人との繋がりが深まり、心通い合う気風が醸成される知的で情的な営みともいえるでしょう。

Category: < つれづれ > | 2009.04.17 Friday 13:00

研鑽って ナニ?

「研鑽って、どういうことですか?」
研鑽は、別の言葉だと、科学哲学 と言ってもいいかな。
「科学?哲学? って、なんだか難しそう~」
言葉は難しそうだけど、やることはシンプルで、易しく言うと、
科学は『どうなってるのかな?』、哲学は『なんでかな?』と、いつもクエスチョンをもって検べることかな。
「科学は『どうなってるのかな?』で、哲学は『なんでかな?』というクエスチョンですか???  うーん、簡単そうにも聞こえるけど・・・、これこそクエスチョンだー。」
例えば、楽器のピアノ。ピアノは『どうなってるのかな?』というのは科学。それから、ピアノがある、人間がピアノというものを作った、それは『なんでかな?』というのが哲学。
「ピアノがあるのは『なんでかな?』、ピアノを作ったのは『なんでかな?』
そんなの分からんなぁ~」

分からなくてもいいんだ。『どうなってるのかな?』『なんでかな?』というクエスチョンが自分の中にあるということが研鑽の始まりだから。
「答えよりもクエスチョンが大切なんですねぇ。」

人が「生きている」ということを『どうなってるのかな?』と検べるのが科学で、『なんでかな?』と検べるのが哲学と思うよ。
「お金」とか「規則」とか「学校」なども、『どうなってるのかな?』と科学してみる、「なんでかな?」と哲学してみる。
「・・・うーん、だんだん難しくなってきた~」

ピアノや自動車について『どうなってるのかな?』と科学するのは分かり易いかな。『なんでかな?』と哲学するのは、馴れないと難しく感じるかな。
でも『なんでかな?』と思うことってあるよね。
「規則を守る」とか「迷惑をかけない」とかだと、『なんでかな?』と考え易いよね。これも哲学だよ。
でも、「規則を守る」「迷惑をかけない」のは『どうなってるのかな?』と科学する方が、馴れないと分かりにくいかもね。

「『どうなってるのかな?』と検べて「こうなってる」と分かることがあるし、『なんでかな?』と検べて「こうだから」と分かることもあると思うけど・・・。」
例えば、自動車は、ガソリンを燃やしてその力でエンジンを動かして・・・「こうなってるんだ」と分かったように思っても、ガソリンを燃やすって『どうなってるのかな?』エンジンを動かすって『どうなってるのかな?』と、分からないことだらけだと思うよ。
学校があるのは『なんでかな?』、規則があるのは『なんでかな?』と検べて「こうだから」と分かったと思っても、じゃあそれは『なんでかな?』と尋ねてみると、どこまでもキリがなくて、誰も答えられない・・・。

「小さな子どもが「なんで?」「なんで?」と、聞いてくると、しつこく感じて、ウルサイ!そういうものナンダ! と言ってしまうのは・・・、そうか・・・答えられないのか・・・。」
そうだね、そういう意味では、小さな子どもが一番の哲学者かもね。
「へぇーっ? 小さな哲学者???」
おとなになるにつれて、分かったと思うことが多くなって、「なんでかな?」と思うことが少なくなって、哲学しなくなっちゃうんだろうね。
「そんなことされたら腹が立つのは当り前だろ」としてしまわないで、腹が立つというのは「どうなってるのかな?」「なんでかな?」と、どこまでも、どこまでも、クエスチョンがあると面白いだろうネ。
まだまだ、続きがあるけれど、今日は、ここまで。

Category: < 研鑽の理 > | 2008.12.21 Sunday 08:26

「あらわれたもの」 と 「そのもの」

 例えば、ホコリやゴミが付いたカップを見ると、「汚いカップだな」と見える。
 このことを調べてみると、「汚い」というのは、ホコリやゴミを見てのことで、ホコリやゴミがなければ、「汚いカップ」とは見えない。
 「汚いカップ」というのは、主体が「カップ」にあって、「カップ」のことを指して、そう言っているようだが、その実は、ホコリやゴミのことを指しているのではないだろうか。つまり、「カップ」が「汚い」のではなく、ホコリやゴミを「汚い」と見ているのだろう。「汚いカップ」と見えるのが、間違いだとか、おかしいということではなく、実際は、ゴミやホコリを「汚い」と見ているのに、意識の上では「カップ」を見ているつもりではないだろうか。
 ここでいう「あらわれたもの」とは、この「汚いカップ」の例ように、日常見たり聞いたり触れたりして、「認識して捉えているもの」とも云えるだろう。
 「そのもの」とは、この例でいうと「カップそのもの」とも云える。いくら、ホコリやゴミが付いていても「カップそのもの」は汚いものではないだろう。
 この章では、「あらわれたもの」と「そのもの」ということについて、
1.言葉 と そのもの
2.物象・事象 と そのもの
3.あらわれたもの と その人
以上の3部に分けて述べてみようと思う。
「あらわれたもの」と「そのもの」 序文より抜粋

Category: < 研鑽の理 > | 2008.10.16 Thursday 07:38

「あらわれたもの」と「そのもの」

第9回 研鑽科学サロン

今回、開催お知らせの直前まで「どんなタイトルにしようか」と、小野さんとやりとりしてました。
「現象」という言葉、「本質」という言葉、「理」「無現象」という言葉、など使ってもいいけど、そうすると余計に言葉に捉われてしまいそうな感じがして、できるだけ平易で聞き流せるような言葉・表現でと思い、このタイトルになりました。

そんなこんなで、先ず「言葉について」というところから入ってみました。
どんな言葉を使ってもいいけど、言葉での議論は溶け合わなくてキリがないよね。
言葉ではなく、本題はその云わんとするところね。

Category: < 研鑽の理 > | 2008.08.01 Friday 20:00

研鑽科学(ヤマギシズム)について

【研鑽科学という表現】
40年以上に渡って、日本では「ヤマギシズム」という言葉が、団体固有の名称として用いられてきた為に、この言葉を用いると誤解が生じ易く、あえて「ヤマギシズム」という言葉を避けて、「研鑽科学」という言葉を用いています。
ヤマギシの組織が公表している資料やホームページには、「ヤマギシズム」について言及した解説は殆どなく、「無所有一体の生き方」などという表現がされてある。
無所有一体共用生活が「ヤマギシズム」ではない。
仲良い楽しい幸福社会を作ろうとする会や活動が「ヤマギシズム」ではない。
「ヤマギシズム」はイズムであり、考え方である。
「ヤマギシズム」からくる無所有一体共用の仲良い楽しい幸福社会というものはあるだろうが、
無所有一体共用の仲良い楽しい幸福社会が「ヤマギシズム」ではない。
無所有とか一体などの表現は古来からあるもので、理念でもないし、ヤマギシズムを表す言葉でもない。
敢えて云うなら、ヤマギシズムそのものが理念であり、研鑽が理念である。
「無所有一体社会が宗教化したら大変」(1961.10 第5回理念研鑽会)
「ヤマギシズムは言葉でも文字でもなく、現象でもなく、一つの考え方に過ぎないもので、・・・」(1960.4 ヤマギシズムと山岸会)
「ヤマギシズム」と呼ぼうと呼ぶまいと、中身が「ヤマギシズム」かどうか、つまり「研鑽」があるか、どうか。



【偏らない固定のない科学哲学、即ち研鑽】
研鑽という言葉は、学問・技術・芸術など専門的に深く究めるという意味に用いられる。
私たちが用いている広い意味での研鑽科学は、特定の人ではなく、人間なら誰にも当てはまると思われることで、研鑽(深く究める)ということを平易に云うと、安易に分かったとか出来たとか結論づけない営みとも言える。
日常の見る・聞くという行為でも、見たから聞いたから分かった知ったと結論づけないで、事実・実際・真相はどうなんだろうという考え方を研鑽と呼んでいる。
例えば、薬を飲んで病気が治ったり、拝んで病気が治ったりすると、
「薬を飲んだからだ、拝んだからだ」となる。
「物が落下するのを見て重力の作用だ」となる。
「形態を見て、無所有だ、一体だ、ヤマギシズムだ、研鑽会だ」となる。
これらは現象面を捉えて、そのものを捉えているつもりになっている例と云えるだろう。

このことを、もう少し突っ込んで見てみると、現状では「こんなことを言った人」「あんな行為をした人」と、発言や行動を捉えて、人を判断していることが多々あるだろう。犯罪と云われる行為をした人は悪い人とされるし、皆が喜ぶような行為をする人は良い人とされ易い。

研鑽によると、人の行為についても、現象面の目に見える言動よりも、その言動に至るその人の心の状態や考え方などに重点をおくようになる。
人の言動や凡ゆる事象について、人間の持つ感覚器官で捉えたものをベースにして、その背景や底にある内面・真相・原理を知ろうとする知能の働きが、科学であり哲学だと思う。



【研鑽の実現、本質的なものに重点をおく】
社会組織についても、現在までの社会通念では、規範とか秩序を重んじ、規律を守るとか、真面目に働くとか、そのような現象面のこと(行為)をとても重要視している。
人間教育・躾け・道徳などは、心を大切にしているようだが、やはりその結果、良い行為をするかどうか、行為が悪ければ効果がないと見なす。
良い行為をするのが良い人間で、心や考えが良いと見ている。
逆に、悪い行為をするのは、悪い人間で、心や考えが悪いと見なされる。
正しい心や考えを教育して、罰則によって悪い行為をなくせば、誰もが義務や責任、規則や契約を守り、物が豊富で便利になり、人の幸福や社会の平和が実現するかのように思われているようだ。
ヤマギシズムを名乗っていても、
私有財産を持たないとか、独断独走しないとか、皆で相談して決める等することが、ヤマギシズムを現しているかのように思い易く、そういったことに力を入れるようになる。
現に、どうすることが「ヤマギシズム」なのか、分からなくなっていると思う。
故に、今までやってきた形態を守り踏襲することで、ヤマギシズムを実践しているかのように、今日の活動に意義を付けたがるのだろう。

歴史的事実や社会通念によって「人間とはこういうものだ」との観念が強いために、人間や社会を本質的に見ようとする観点が育たない。現状の人間や社会組織をどうしたらよいかという発想から抜け出せない。

凡ゆる動植物は、正に自然体でそのものらしく脈々と生き続けている。
何故、人間には努力や頑張り、我慢や辛抱、規律や統制が要るのだろう。それは人間の本分である知性に逆行するものと思う。
自然体でそのものらしく生きる人間本来の姿を知ろうとしていないのではないか。
ヤマギシズムは「人間とは、社会とは」と、その本質を科学哲学する思想である。

Category: < 研鑽の理 > | 2008.02.26 Tuesday 12:00

(2008.2.23) 発表内容の骨子

調べる・科学する・研鑽する
人とはどういうものか、社会とはどういうものか、を純粋客観で調べようとする。「本当はどうか」「事実・実際はどうか」
問題・間違いがあるから研鑽する ⇒ 問題・間違いと思うものがなくなれば研鑽しない ⇒ 研鑽というものをそう捉えている ⇒ いつまでたっても、そのものを科学する研鑽が始まらない
解消したと思えたら(良くなれば)、良いとする・・・自己盲信・宗教・覚せい剤・幸福感
悩み・苦しみ・争い・間違い・問題を前提にした人間学・社会学は、科学とは言えない。
宇宙科学・物質科学・・・宇宙や物質に問題があるから科学する訳ではないだろう。
人や社会に対する問題視(主観)を持っていては、研鑽科学は始まらない。


欲求 ~ 意志 ~ 感情 などについて
脳の働きによって現われるものだが、周囲・環境から受けたものによって形成された観念の影響が大きい。
目標・やりがい・生きがいを持って、
やりたい(欲求)、やろう(意志)、やった・やれた喜び・満足(感情)
こんな仕事をやりたい、掲げた目標をやろう、願いが叶って嬉しい
欲求~~感情などは自分の中から出る自然なものと見てしまいがち。
殆どが周囲から受けた(植え付けられた)観念によるもの。
他の人が嫌がるような欲求・意志・感情という場合もあるだろうが、
その人そのものが悪い訳ではなく、受けたものによって、そのような欲求・意志・感情が湧く観念になっているのだろう。
良い大学に入りたい、競争に勝ちたい、出世したい、音楽家になりたい、お金持ちになりたい、人を倒したい、死にたい・・・・
その人そのものの欲求と云えるだろうか? 意志や感情についても・・・。


調教された動物
人間の指示で動くサーカスの動物・介助犬・警察犬など 自身の意志からの行動とは云えないだろう。
人間の指示通りに動くのを「賢い」とか「偉い」と見る。
よく躾けられた子供がおとなの言うことをよく聞くのを「賢い」とか「偉い」と見る。子供自身の意志からの行動と云えるだろうか。
法を忠実に守って、真面目によく働く人を「良い人」「立派な人」と見る。
「アメとムチで芸をしこまれた動物」に似ている
規則・賞罰・評価・金銭・報酬・道徳などで動く人間、いやいやではなく積極的にこれらを使いこなして生きている。「よく調教された人間」
自分で考えて自分の意志で動いているつもり。
決められたことをやれない動物・人よりも、決められた通りにやる動物・人を「賢い」とか「偉い」と見る・・・今の世の中の人間観


やらせる・やめさせる
野生の動物や人間の赤ちゃんなど、やらせたりやめさせたりできない。
調教した動物、分別を教えた人間は、やらせたりやめさせたりできる。
やらせたりやめさせたりできるのを知能が高いと云っているのだろうか。
命令や「飴と鞭」の賞罰、規則・罰則は一方だけでは成立しない。
つまり、命令する・命令される、罰する・罰せられるという共通観念が必要。
野生動物や赤ちゃんには命令される・罰せられる観念がないから効き目がない成立しない。
やらせるやめさせるが当り前になっている今の人間界。
それができるように・・・教育制度は人間調教のようなもの。
リモートコントロールのロボットのような回路を、人間の頭の中に埋め込み、報酬・賞罰・道徳・規則・命令などで、人を操作できるように調教している。


自由欲求 自由意志 の領域へ
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