BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― < 一体の理 > ――
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Category: < 一体の理 > | 2008.07.12 Saturday 17:00

共に暮らす 2

見ず知らずの子どもが、「そこに大きなヘビがいたよ~!」と話しかけてきた。
こういう時の子どもの中はどんなだろう。
大人にもあるね。
例えば、大きな事故を目撃したら、見知らぬ人にでも、「そこで大きな事故があったんですよ」と、つい話しかけてしまうとか・・・。
でも、人によっては、そういう気持ちが湧いても、見知らぬ人だと、平常顔を装い抑えてしまう作用が働く場合もある。何故だろう?


子ども時代を想うと、学校は友だちとの暮らしの場であったような気がする。小学校の頃はこれが更に顕著で、友達と遊ぶために学校へ行ってたような気がする。
中学・高校・学生時代の友とは、何でも喋り、きついことや嫌なことも言い合ったり、腹を立てて喧嘩したり、親兄弟とも一味違った親しい仲にもなる。

大人になるにつれ、それぞれの進路に別れ疎遠になって、よそよそしい関係になっていく。
就職しても、その職場環境やそこにいる人によって、同僚との暮らしの場になっている人もいる。(人生の豊かさに大きく影響すると思う)
大人になっても長屋の八っつぁん熊さんのように不審や警戒や疑いもなく開けっ広げで暮らせる人もいる。
犬や猫もそこの家や家族に馴染んでしまうと、獣の本性を忘れたのではないかと思うくらい無防備で大の字になって寝たりする。


「共に暮す」という言葉の響きから「同居」をイメージされそうだが、意義や使命で寄って、優劣感上下感の中で遠慮・気兼ねの要る暮らしは、人と共に暮しているとは云えないだろう。
「人と」ではなく、何かと暮している・・・?
施設や環境を整えて、一つの地に寄って住めば、果たして人は仲良く安心して共に暮らせるのだろうか?

周囲の人に不審や疑いの目が有れば、安心して共に暮らせない。
周囲の人に無くても自身の中に不審や疑いが有ると、共に暮らせない。


幼い子どもには不審とか疑うという気持ちがない。人や自分を縛るということもない。
そういう子どもに対する方にも、不審とか疑うとか縛るという気持ちは生じない。
こういうの「相関関係」っていうのかな。「社会の成り立ち」もこの辺りにありそうな気がする。
人の根底をなす「もののあわれ」というものかな・・・

人と共に暮らせる人の豊かさを想い、その中で人と共に暮らす自分。
人と共に明け暮れる毎日の連続かな。

Category: < 一体の理 > | 2008.07.09 Wednesday 13:00

共に暮らす 1

10代のある時期から、この先、大人になって社会に出て、就職して、結婚して、子どもができて、家庭を作って、家族を養って・・・、
そんなこと、やってもなぁー、と悶々と悩んでいることがあった。

ふとしたキッカケで、ヤマギシズムというものに出会った。
考え方・主義・思想で、この生き方に惹かれたという面も強いが、
今、想えば、自分を一番大きく動かしたのは、
やはり、「共に暮らしている」という実態だと思う。
 (昭和40年代に触れた春日山と豊里)
そこは、何かをやるという目的で集まって来ていることは確かだが、それだけではない、次元の違うような何かを感じた。
何かをやっても何もやらなくても、「共に暮らしている」という感じかな。
子どもがいる、老人がいる、飲んだくれている人がいる、結婚や出産がある・・・・・・理屈に無頓着で講釈しない大半の住み人たち。


しかし、その後は、「共に暮らす」という実態についての研鑽もなく、他のことに多くの歳月とエネルギーを費やしてきたと思う。
そして、ここに来て初めて「共に暮らす」実態の研鑽が始まったと思う。
近所に住んで職場や研鑽会で顔を合わせていても、共に暮らしている人と、そうでない人がある。

一体(無所有)と呼んでもいいが、そんな言葉も理屈も要らない、それより前に、そのままで共に暮らしている人。
人は生まれながらにして、親兄弟など「人と共に暮す」実態を身をもって知っている筈、成長につれて自分を知り多くの人を知り、人と共に暮らす広大な世界に住み得るもので、それがその人の人生を如何に豊かにするものか言うまでもない。モノカネの富みなど比ではない。


しかし、成長過程で多くの不審感 警戒心 猜疑心などを身につけ、共に暮せなくなっている。
元来、人はひとりでは寂しい。友を求め、家庭を欲するのも、幼い頃に共に暮らした感覚からだろうか。少ない家族で小さな城に個々に貯えて、わざわざ狭く小さく生涯を送ろうとしているかのようだ。
知らず知らずのうちに身についた観念で「個々で暮らす」のがベースになり、その上で都合によって「一緒にやろう」という意識が生まれる。

「一緒にやろう」という後付け意識と、元から「共に暮らしている」のとは全然別ものと思う。

「共に暮そう」と、意識でそう思うのでなく、何の囲いも持たない元来の「共に暮らす人」に立ち還ることだと思う。そうはいっても現状では、周囲の気風や環境に依るところが大きいから、やはり「共に暮らせる人」が「共に暮らしている」実態が大きいと思う。
最も安全な、誰にも盗られぬ、子孫永久に栄える、世界幸福株に乗り換えているのに、何が貧乏しているのでしょうか。(山岸会養鶏法)
何処かの一角から、後で度々改修しなくてよい立派な道路と、交通整理係も要らない道標を創り、乗り物も用意し、これならいけると、誰でも共鳴して協力されるキッカケを、・・・(ヤマギシズム社会の実態)
「人と人が境なく共に暮らす」誰にも解り易い実態を・・・

Category: < 一体の理 > | 2007.10.07 Sunday 03:00

ヤマギシズムとは

人と社会の真実 および その実現(戻す革命)の方法
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1) を参照して下さい。

仲 良 し
仲良しは人と人の元々の姿。
仲良くしよう、仲良くなろう、等も要らない。要るとしたら仲良くないから。
仲良くない原因は、持って生まれたものでなく、後天的なもの、人間の考え(自分の考え)。
良いとか、悪いとか、人を裁く考え方で、自分の考えと異なる考えや行動を受け入れられない頑固さ(キメツケの考え)
仲良くない原因(ひっかるもの)を持ったままで、それを取り除こうとしないで、仲良し・協調・平和を実現しようとして、いつまでたっても実現しない、当然の帰結。(かりそめの仲良し)
元々、何もひっかかるものがなければ、会話・協力・接点なくても仲良し。
人類同属である人と人、仲良くない筈がない。
どんな考え・行為の人であろうとも、受け入れない頑固さ(ひっかかるもの)さえなければ、心通い合い仲むつまじく愛し合って暮らせるもの。
自他一体の理


自 由 ・ 平 等
自由・平等は、ありのままの自然な姿であって、あえて獲得するようなものではない。
何もない状態は自由・平等であり、自由・平等でない状態があるとしたら、人間が作り出している。権利・義務・責任・規制・罰則・取り締りなど(束縛・押し付け・悪平等)。
自由・平等という言葉も要らない自然界の上で、更に人間は物を作り出したり移動したりすることによって、他の動物よりも高度な自由・平等を実現する能力がある。
(高度な自由・平等とは、人間が上空を移動できるとか、山間地で海産物を食べられる等々)
それにも関わらず、罰則や人の上下を設けないと安心して暮らせないが如く思い込んでいる今の人の世は、他の動物よりも程度が低いとも云える。
規制・罰則がないと不自由・不平等になるという思い込み観念に気付いて、なぜ不自由・不平等が生じるのか、その原因を取り除いて、元来の自由・平等の上に、昨日より今日、今日より明日へと・・・、人間ならではの高い自由・平等を実現する。
誰が用いてもよい


幸 福  豊 か さ
幸福とは正常・健康な人の姿であり、人間本来の当たり前の状態。
地球上の生物は、地球に適しているのは当然で、正常・健康に生きて当たり前。
(地球上で)人間が幸福に(正常・健康に)生きるのに、努力や苦労が要る筈がない。
人間は人間として人間らしく生きられるように、空気・水・日光・その他の栄養物があり、肉体・精神・知能が活動する。
もしも、不幸や貧しさを感じることがあるとしたら、それには必ず原因があると思う。
健康とは、豊かさとは、幸福とは何かを知り、元来の豊かさ・健康の上に、人間の知恵と力によって、物心共に豊満な快適社会が実現する。
お互いを生かし合う世界


2006.12.22 子ども達に伝えたい
2005.09.20 心の世界
2005.07.09 一体生活調整機関
2005.07.08 こころのせかい

Category: < 一体の理 > | 2005.09.22 Thursday 15:56

愛の世界は絶対一つ

この世は一つ 宇宙自然万物一体  人類も一つ
 生物も無生物も物象面では、それぞれに存在し動いているように見えるが、
単独で存在しているものは何一つ無く、凡ゆるものが他と関連して存在している。
 例えば物象面においては、一瞬の停滞もなく悉く変化しているが、その中の物質をとらえて見ても、この世の物質そのものは、組成も性質も総量もなんら変わることがない。つまり、この世の物質は、増えたり、減ったり、新しく生まれたり、この世から消滅したりすることがない。物質は一つ。
 また、生命という形の無いものについても、現象面で生物が生まれたり死んだりしても、生命は増えたり減ったりしない。一人の人間が死んでも、その人体は細胞や微生物など無数の生命体で構成されている。生命は綿々と連なっていて動物も植物も個別の生命というものは捉えられない。生命は一つ。
 動物の肉体は食物の集積で、人間の思考や感情は周囲からの集積で、いずれも単独で存在しているものはない。
 この世にあるものを、人間が個々別々に捉えるようになり、その捉え方が普及して今に至っているが、この世は一つであり、分けられないものだとなれば、怒り・憎しみ・嫌悪・対立・抗争・優劣感・勝負感・損得感などが、自ずと人間界から消滅する。消滅するだけでなく、母子愛・夫婦愛の如く、自他を分かたぬ一体の愛情が発露する人間界となる。
 無辺の愛情は「一つ」の顕われ。愛は一つ。絶対愛は絶対一つ。

 物質とか生命とか人類とか、或いは、光とか重力とか、愛とか真理とか、人間よりの認識からくる捉え方。この世は分ける必要もなく、分けられるものでもなく、一つのもの。
 この世はそういうものではなかろうかという、これも人間がする捉え方。

Category: < 一体の理 > | 2005.09.04 Sunday 09:11

「仲が良い」とは

人は、仲悪くなりたくないのに、争いたくないのに、仲悪くなったり、争ったりする。なぜか?
人は、病気になりたくないのに、殆どの人が、病気を体験する。人間というのは、そういうものだから仕方ない?

でも、ずっと病気にならない人になるより、ずっと仲悪くならない人になり合うことの方が易しいと思う。
謝るとか、許すとか、仲直りするとかでなく、ずっと仲悪くなる要因がないもの。
「仲良く」とか「通じ合う」に力を入れてると見失いがちだけど、ヒョイと視点を「仲悪くなる要因」に向けると、そう難事でないことも判る。この視点が大事と思う。
何年も前に「これなら世界から戦争なくせる筈」という体験してる人多いと思う。
「仲悪くなる要因」取り除けば、けんか争い、戦争なくなる当然の理。
病気なくすよりは、ずっと容易で、もう殆ど実現してる例(人)たくさんあると思う。
ここを煎じ詰めるだけで、おおかた解ける(溶ける)と思う。

人と人とが心離れたり相反目しない本当に仲良い世界

Category: < 一体の理 > | 2005.08.30 Tuesday 08:39

「仲が良い」について

ヤマギシでは長年「仲良し」を、うたい文句にしてきていますが、
やはり「反感」や「対立心」が内在する「仲良し」では、平和な世界は訪れないと思います。

かつて「ヤマギシを考えるネットワーク」の活動がはじまった頃、それに随分反感を抱いた。
なぜ、批判や反対の言動に対して、あんなに反感を抱いたのだろう?

仲良くやっている組織や、仲良い人達がいるとしても、私たちの興味は、そのことよりも、
その組織や人たちに、仲が悪くなる種はないのか、反感や対立心の種はないのかと、そちらに関心が向きます。

仲が悪くなる種、反感や対立心の種を、そのままにして、如何に仲良くしていたとしても、決して平和な世界は訪れるものではないと思います。

Category: < 一体の理 > | 2005.07.09 Saturday 08:25

一体生活調整機関

一体生活調整機関の趣意書が欲しいと思う。

「聞ける心の世界」「持たなくていい心の世界」「溶け合って境のない心の世界」からの人間社会の顕現。

「どんな人の声も聴けて」「囲い禁止する要がなく」「溶け合って離れようがない」人に、誰もが立ち戻れる社会。そういう人に育ちあう社会。

実は、調整機関に限らず人間世界というものは、職場も家庭もどんな組織でも、人と人とがする行為は、これなくして決して成り立たない。
人と人が共に生きるには、これが絶対不可欠だということを、心底では誰もが知っている筈だが、現状の人間世界が、あまりにかけ離れている為、そんな人間関係は無理と諦めている。或いは、そういう人間関係を欲しているという自覚もなく、むしろ、そこまで近しい間柄は望んでいないという観念。

人と人との間柄を軽視する人は少ないだろうが、それでも何か事を為す手段か一要素くらいに捉えていて、仲良くないと事がうまく進まないから、仲良い方がいいとか、事が順調に進んでいると人間関係に問題が起きないから、それで人間関係ができていると思い易い。
現象による思い込みで、心の世界を観ようとしていない。
心の世界からの本当の人間世界という理想がないと、ほどほどの現象面で人間関係ができていると判断し易い。

人と人との間柄とは、こんなものではない。
これは精神論や心の持ち方のことではなく、生産・製造・サービス業・政治・教育など凡てに渡って、
人と人との間柄が本当のものにならない限り、人と人とでする行為・組織は絶対に本当のものにならないという当然の理。

Category: < 一体の理 > | 2005.05.19 Thursday 08:05

あ・い・す・る

 多くの会や団体が破綻するのは、寄る時の理屈・勘定はよいが、この団体を愛し、会員を愛し、真に自己を愛する相愛の精神が足りないためです。
 自分のみのためにと、取り合っていて、よくなる道理はありません。

・・・、後に続く人々に、自分の持てる凡てを”かつて自分が受けたように”与えて、与えて、与え尽くす愛の心です。後れている人は吾が子です。吾が子に与える喜びに生きる、喜びの自分を発見するのです。

・・・、与えて喜び、受けて喜ぶ、相愛社会に永久の安定・繁栄があるのです。

 こんなに複雑精細な養鶏法が、素人の誰にでもやれる方法があるのです。
 その方法と云うのは、毎月半日を割いて支部研鑽会に出る丈のことです。
 共に研鑽して時の最先端を行なうのみです。

人間の普通で自然な状態には、損得勘定とか、公私の区別とか、が無いのが本当だと思う。家族の間柄など見ると当然のことなので分かり易い。
人類同属、同じ人と人でありばがら、利害が反する人が存在するということ自体、どこかに間違いがあると思う。(一方が儲かって、片方が損する等々・・・)
「店と客」の関係は「売る人と買う人」という関係だが、客が店を愛するということもある。店を愛する客が多いということは、店の繁盛に繋がる。
会社などでも、「雇う人と雇われる人」という関係ではなく、会社を愛する人が、どれだけ多くいるかが、会社の繁栄に繋がる。日給・時給・歩合給という仕組みでは、愛する心が育ちにくい。
どんな組織でも、支部活動でも、調整機関でも、研鑽会でも、・・・人が多く寄っていたとしても、その会を愛する人がどれだけ多くいるかで、その会の繁栄・繁盛は決まるような気がする。
でも、愛国心とか愛社精神とかの場合は、殻のある小愛もあるし・・・、
好きとか、親しいとか、放っておけない、というのも愛するとはチョット違うし、・・・
「一つ」という感じかな。

Category: < 一体の理 > | 2005.04.20 Wednesday 07:48

一体の方向・・・

昨夜の研鑚会で「一体の方向」というのを出してみた。「一体の方向」とは・・・
人間世界の究極の姿は「一体」で、そうなるまでは、紛争や貧困は絶えないと思う。
だから「一体の方向」とは、遠い遠い先に的を置いている。でも「一体」に随分近い人も沢山いる。

「一体」とは囲いや隔てなく凡てと溶け合った状態。
口に唱え頭で思う「一体」ではなく、実質その人自身がどれだけ「一体」か、ということ。
テレビでも新聞でも、どんな人を見ても、どれだけ「一体の人」かな。どれだけ「一体の方向」にある人かな、と思う。
研鑚会に来ている一人一人は勿論のこと、エコサウンド・スリーシー・ひまわり会・つくしんぼ 等々、凡ゆる活動は「一体の方向」のものの筈。
道行く人、接する人、みな「一体の方向」で接したい、処したい。
仕事が順調に進んで良かった、長年の願いが叶って良かった、でも、その人の「一体の方向」というのは、どうだろう。
「一体の方向」とは、その人が好むと好まざるに関わらずだよね。言い換えれば「真の幸福」でもいいし「真の人間」とも言えるね。

昨日、ある人が現状では不便だと思うことがあって「このように変えたい」という話があって、はじめは「ああそうか」と聞いたけど、「でも、不便が解消して、それでどうなん?」って思った。
日常いろいろな価値観(実は常識観)を基準に考え行動していることが多いと思うが、「一体の方向」が確定すると、それに適うものか、どうか、という課題が、いつも浮き彫りになると思う。
「真実の世界」は、真実か、どうか、という価値観、っていうかな。思い為すことの判定かな。

あの人も、この人も、どうしているかな?幸せになって欲しいな?
こういうものが湧いてくる元は、親愛の情だと思うけど。情だけだと幸福感に終わるよ!!
「一体」というのは、ほんわかあったかい情の世界のように思われがちだけど、
「一体の理」に即するというのが本意かな。そこからくる「真愛の情」かな。
一人一人が「一体の世界」の「一体の人」になる方向。
旧知の人の方向、近所の人の方向、・・・地球上の全ての人の方向。

Category: < 一体の理 > | 2004.12.10 Friday 22:49

一体の理

一体の理

すべてのものが繋がりがある。そして、相補(万物)の一体感は、絶対に不変の真理とす。


一個の私という存在は、全世界の凡てに関係あり、一事一物みな悉く全世界と関連していないものはない。
一切のものは互いに無限の関係に於いて存在している。
時間的に今日という一日は、決して昨日なしには存在しない。
今日は単なる今日でなくて、「昨日を背負い明日を孕んでいる今日」なのだ。
一切の事物は、みな孤立して存在しているのではなく、実は縦にも横にも無限の相補的関係にある。
即ち、無尽の縁起的関係にある。
従って、現在の私は、無限の空間と永遠の時間との交叉点に立っているのである。

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