BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― < 人 間 理 > ――
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Category: < 人 間 理 > | 2005.12.28 Wednesday 10:12

自然 と 人知 の ・・・

自然な愛情
どんな動物にもあるであろう母性愛や家族愛。
見たり触れたりする機会があることで湧く愛情(血縁なくても)。
見かけただけの人にも湧く親しみ、身近な物への愛着、・・・自然な人の姿。

一体観からくる愛情
知 性
叡 智
==>
一体観
世界観
==>
無辺の親愛
人間の持つ知能によって、
全世界の人類間の繋がりや、自然万物 一体の一部としての存在を知り得る。
体感的な自然な愛情は、もちろんのこと、
一体観からくる大愛、無辺の愛情を基に人間界は営み得るもので、
そこには、貧困や争いなど起こりようがなく、
自然全人を愛する人間らしい社会。 愛と理知のみなぎる世界です。

追記
自然のままでは、体感的な周囲への愛情にとどまり易いから、
全人幸福親愛社会実現には、叡智による一体観の涵養こそ、先決であり、それ以外の道はないと思う。
自然な愛情 と 人間ならではの一体観からくる愛情 とを混線しないようにしたい。

Category: < 人 間 理 > | 2005.09.20 Tuesday 09:43

心の世界

肉体の生命活動をつかさどるエネルギー(生命力)は無現象で、傷ついたり冒されるものでなく、絶えず健康に生きようとするもの。
肉体そのもの、つまり現象面は、傷ついたり冒されることがあるが、健康に生きようとする力は絶えずあり続ける。

心の世界は無現象で、脳の働きや周囲からの刺激によって、いろんな反応(現象)が起きる。思考・感情・欲求・言動・・・等々。
心は汚れたり歪んだり崩れたり間違ったりしないもの。
心は正しいもので、常に正しくあり続け、正しく反応するものが心。

どんなに肉体が病んでも、健康に生きようとする力が、生きている限りあり続けるのと同じように、
思考・感情・欲求・言動が如何に乱れようとも、心の世界はいつも正しい心であり続けている。現象面の問題を重視するあまり、人間の本質・心の世界から焦点がずれることが多い。

無現象の生きる力を引き合いに出すと分かり易いと思うが、
無現象の心の世界は、捉えられないが実在するもの。誰にも存在する普遍のもの。
人間の本体は何か、人間の本来性は何か、と調べる・・・、生きる力とか、心の世界から入っていく。

Category: < 人 間 理 > | 2005.07.08 Friday 08:24

こころのせかい

自覚しないくらいに当然になってるのかもしれないけど、
なぜ人と人が、こんなにもよそよそしいのだろうか?
身内というか、近しい、親しい、心ゆるせる、心底うち溶けられる人は、何人いるだろうか?
何億もの人がいるのに、ホントに近しい人は数人しかいないという人が多いのではないだろうか? 今の日本には、もしかすると一人もいないという寂しい人がいるかもしれない。

生まれてから、このかた、よそよそしい人間関係を教え込まれて来たと思う。「家族以外は他人ですよ。」「他人と親しくするものではありません。」「親しくしてはいけません。」だまされないように、負けないように、損をしないように、警戒心・不信感・優劣感・勝負感などを植え付けられて来た。

このような、教え込み・植え付けの被害の薄い人は幸いな人で、比較的、「心の世界」が侵されていないと思う。
安心の人の中で、安心して育つと、わが身を執拗に守ろうとする「我」も身に着ける要がない。疑いや不信感なく誰のどんなことでも受け入れられる。その人の中に、拒み対抗する芽がないから周囲にあっても育たない。

「聞く」とか「持たない」とか「一体」というのは「心の世界」のことで、なんでもない人と、とても難事な人とある。これは生まれや育ちや体験などの違いで、やむを得ないと思う。

「聞ける心の世界」「持たなくていい心の世界」「溶け合って境のない心の世界」を知って、そこに帰還しようとするものです。

本当の人間世界の素晴らしさを実現・実感・実証しようとするものです。

Category: < 人 間 理 > | 2005.07.08 Friday 08:23

つづく ひとけんさん

くどいようだけど、人に一番重要なのは、心の状態、心の世界の状態。

何をやっているか、とか、何を言ったか、ではなくて。
明るく、楽しく、面白く、暖かい気持ちでやっていると言っても、心の世界は、どんな状態か。
誰と会っても、どんな人を見ても、その人の心の状態に気が行く。「この人、どんな心の状態なのかな?」
誰でも、何にでも、悪くしよう、悪くなろうと、暮らしている人はいないと思うけど、・・・
誰でも、何やるのでも、先ず心の状態が先で、何にでも心の状態が現れるので、良くしよう、良くなろうと、するなら先ず心の状態を良くすること。

心の状態を良くする、と言っても分かりにくいけど、先ず心の状態に重きを置くというか、そこを外して何やっても駄目だということが、腹に入ったら、心の状態に関心が行くと思う。
正義感・道徳感・良かれと思っての行為は、観念的で宗教に似たところがあり、一生懸命に良いと思って、良かれと思ってやっていても、心の状態とは別のもの。思い観念を心と勘違いしているから自分の心を知らない。思い観念が邪魔をして心に届かない。

心の世界・心の状態は、人間の核とも言えると思う。
心の状態のことを「人格」とも言えると思う。(既成社会通念の人格者とは異なる)
何か良くできた人とか、立派な人という見かけのことではない。
心の状態、自分を知る人、自分の心底からの言動の人。 そういう人は観念的になって振り回されたり、人と一線を隔てたり、ひっかかって腹を立てたりしない。こういう現象を言うと、すぐに現象の方に気が行く人が多いが、現象ではなく、心の状態のこと。
現象面の現わればかりに気が行って、それを正そうとしても人格は変わらない。
腹立たなくなったって、ひっかからず楽しくなったって、それだけのこと、心の状態はイマイチのまま。

人に対しても、自分についても、心の世界の状態、自分で自分を本当に知る、自分の心底からの言動・・・・。そこにこそ人間の真価があるので、そこに重きをおかなければ、自分も人も人間扱いしていないのも同然。
人と人との繋がりの状態も「人格」心の対人的持ち方の現われ。

心の状態「人格」ということに真に関心がある人、気が行く人で、研鑚を重ねたい。そして、そこを基調にした社会気風(人間性重視=人格重視)を醸成したい。
そして、本当の意味で、人として、良くできた人、立派な人を目指そう。

Category: < 人 間 理 > | 2005.07.05 Tuesday 08:22

ひとけんさん

先日の土曜と日曜に研鑚会をした。のべ13時間くらいかな。

「どういうことをやっているか」とか「どういうことを言った」とか・・・日常の関心は、ほとんどが目に見える部分に偏っている。
「どういう心の状態か」を大事にしているようだが、実はほどんど無関心。
「心の状態」が言動に現れていると言うのなら、言動から「心の状態」に関心が行くはず。

楽しそうでも、悲しそうでも、元気そうでも、しょんぼりしてても、バリバリやっていても、ダラダラしてても、その「心の状態」を観る。
「心の状態」とは、気持ちや感情ではない。

一体、楽、軽い、明るい、持たない、溶け合っている、殻がある、我執・我欲・頑固、キメツケ、独走、・・・
凡て心の状態のこと。頭で意識して、どうこうするものでもない。
どういう心の状態の人かを観ることになる。
「無我・一体・理念・真実・研鑚・・・・」などを理論・定義で言っても伝わりにくい。
そこで、直接、実在する人物で、実名をあげて「この人のこういうところ」というと分かり易い。

僕が、実名をあげて言うのは、そういう理由。その人その人の心の状態を観てのこと。心の状態のことを見方・考え方で言っても殆ど伝わらないから、名前をあげて説明。

頭の中の理想や目的、気持ちの暖かさや熱意、信心深い一途さ等々、では駄目。

人は「心の状態」が肝心。何をやっていても、どんな「心の状態」か、がポイント。そこに焦点を当てていると、人の「心の状態」が観えるようになる。
おてんとうさまには、お見通しと言うが、本当に「心の状態」を観ている人には観える。
価値観がそこにある。他のことに価値をおかない、関心がない。「心の状態」こそ、人間に最も大事なもの。

一人一人の心の状態にだけ関心があり検べる機関。「心の状態 研究」 これは「人間理」になるのかな。
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