BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― <無所有一体へ> ――
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Category: <無所有一体へ> | 2005.02.13 Sunday 21:30

2.無所有について

ここでいう「無所有」とは、「所有」という概念がが無いという意。
不所有・非所有・所有しない・所有物がない、等ではなく「所有」そのものが無い。
「所有」は人間が作り出した概念で、他にも、権利・義務・道徳・法律・規則・お金・国境、等々、人間が作り出したものによって、今日の人間社会は構成され、それに基づいて暮らしている。
これらは、人間が作り出したものだが、あたかも実際に存在するものであるかの如く捉えられていて、所有やお金や規則などの無い人間社会など考えられない程にまで、強く思い込まれている。
「無所有」ということを言葉のイメージから、所有物が無い状態と思う人がいるが、物が無く一文無しの人でも、何かを与えられて自分の物にしたり、物は無くても自分の体は自分の物だとしている場合があるから、いずれの場合も「所有」がある。
自分の物は何も無いという人達が、そこにある物を、誰も自分の物とは思ってなくても、「私達の物」とか「みんなの物」としている場合も、そこには「所有」がある。
「無所有」の人、暮らし、社会などをイメージすると、今の資本主義の私有財産制ではないことは分かるが、そうなると、共産主義社会や共同体的なイメージを抱くかもしれないが、いずれの場合も、個人所有に替わる集団所有・共同所有であって「所有」には変わりがない。

動物が獲物を奪って争ったり、乳幼児が物を取り合って喧嘩したりするが、「所有欲」がある訳ではない。本能的欲求や、欲しい使いたいという思いから、奪ったり、けんかしたりするが、その外見や形態を指して「所有」があるとは云えない。
「所有欲」や「権力欲」など、自然な欲求のように云う人もいるが、その元に「所有」とか「権力」という人間が作り出した観念がなければ、「所有欲」や「権力欲」はあり得ない。
動物の世界の外見や形態を見て、「権力」や「所有」だと思う場合、それは人間寄りの見方・受け取り方であって、「所有」とは何か、「権力」とは何か、を明らかにすれば、動物の世界には、そのような概念は通用しないことが分かると思う。

動物の世界は「無所有」である。「所有観念」が着く以前の乳幼児は「無所有」である。
人間の営みには、「今欲しい」「今使っている」「後に使うために用意する」「何かに備えて必要以上に用意する」「蓄える」「保管する」等々は当然あるが、そこに「所有」のない状態。
つまり「私の物」とか「みんなの物」とかではなく、誰のものでもない。
「これは○○のもの」だから「△△は使ってはいけない」と決めているのが人間の所有観念。
動物は無所有だから、所有観念は通用しない。○○のものだから、△△は使ってはいけない、ということが通用しない。通用するのは所有観念のある人間だけ。
そういう観念づけをしなければ、元々、どんな物でも、誰のものでもない、使ってはいけない物など何もない、使ってはいけない人などいない。
誰がいくら作って用意しても、誰がいくら蓄えても、誰のものでもない、誰でも使うことができる。
誰かが大変な労力を投じて作った物でも、作った人の物でもない、材料を提供した人の物でもない、誰のものでもない、誰が使ってもよい。

「無所有」だから、使ってはいけない物、使ってはいけない人、が何もない。
空気を例にとると、空気を使ってはいけない人などない。
「生きる権利があるから」なんていう後から付けたような理屈は要らない。
「権利」は人間が作ったもの、権利なんて無くていい、誰でも使えるのだから。
「生きる権利」なんて言うなら、腹をすかした人が店にある物を取って食べても咎めることはできないだろう。
「生きる権利」なんて言うなら、人間の都合だけでなく、どんな動物でも殺して食べるなんてことはできないだろう。
「権利」なんて要らない。

空気のように凡ゆる物を誰もが使えるのが「無所有」
人間以外の世界は、そうなっている。
奪い合い、争い、独り占めが起こるから、混乱を避けようとして、所有を設けたのかもしれないが、所有を設けても、奪い合い、争い、独り占めは絶えない。
むしろ、幼い頃から所有を教え植え付けられ、所有拡大指向が蔓延しているから、所有欲求は際限ない。
つまり、所有があることによって、奪い合い、争い、独り占めは激化している。
動物の場合、食べるため、生きていくために奪い合い争うことはあるかもしれないが、所有を拡大するために争うことはない。
動物の本能的欲求と、人間の観念的所有欲とは、ハッキリ区別する必要がある。
つづく

Category: <無所有一体へ> | 2005.02.12 Saturday 21:29

1.所有について

所有というものは、いつから、どうして、できたのだろう。
所有とは? を調べてみると、自分が欲しい使いたいものを、持っているとか確保している、というだけでは所有にはならない。
それは、動物を例にすれば分かり易い。
動物も自分が食べようとするものを、口にくわえたり手に持ったり、或いは一時的に穴を掘って埋めたりもする。でも、そのような行動を指して、その動物が所有しているとは云わない。
「所有する」ということは、一般に「その人が持っている」とか、「その人が自由に使える」ということを意味していると受け取り易いが、それよりも「他の人は自由に使えない」という「使用の禁止・制限」が、「所有」の実態だと思う。
空気のように誰も所有していない物は、誰でも自由に使える。所有しなくても自由に使える。だから、所有するということは、自分が自由に使えるために所有するのではなく、他の人が自由に使えなくさせるために所有するのだと云える。

今の社会は、全てが所有で埋め尽くされているような社会で、「誰かの所有物」になっているものばかりだから、それ以外の人は自由に使えない物ばかりだ。そういう社会の中で、自分が自由に使えるようにするには、そのものを自分の所有物にして、他の人には自由に使わせないようにしなければ、自分が自由に使えないから、自分の所有物にする必要がある。

自然豊かな熱帯では、フルーツなど自分で採って食べ放題の地域がある。誰も所有していないし、誰も所有していないからこそ、誰もが自由に採って食べられる。所有する必要がない。

所有とは、人間が作り出した概念である。
当人が、いくら自分の物だ、自分の所有物だ、と思っても、それだけでは所有にはならない。
周囲・社会が、それは「誰々の物だ」との共通認識があることによって、はじめて当人の「私の所有物だ」ということが成立する。

拾った物、どこかから勝手に持ってきた物でも、その人が「自分の物だ」として、周りも「その人の物だ」と認めれば、その人の所有物になって、他の人は勝手に使えない。使うには、その人の許可が要る。
でも、あとになって、元の持ち主が現れて、それは「私の物だ」とされると簡単に所有者が変わる。そうした場合、証拠がなくて両者が「私の物だ」と主張し合うと、そこに争いが起こる。

金を介してとか、或るいは口約束だけでも、一瞬にして、私の物から、あなたの物へと変わる。変えられる。所有は人の思い次第で、どうにでもなる。

例えば、自他共にAさんの物だと認められている物を、全然関係のないBさんが勝手に持って行って使いたいように使ったとしても、Aさんが何の文句も言わなければ、どうなるのだろう。
すぐに、Bさんの物になるか、どうか、知らないが、少なくとも、Aさんの物でなくなるのは、Aさん次第で簡単になるような気がする。

廃棄物(ゴミ)などは顕著な例で、有用な時は「自分の物だ」と主張したり守ったりするが、不要になると、トタンに自分の物ではなくなる。周囲から「あなたの物だ」と認められることが却って迷惑に思うことすらある。
要る間は自分の物にしておきたくて、要らなくなったら自分の物ではなくしたい、という随分、都合のいい身勝手なものだ。

土地を所有するというのも人間の勝手さが伺える。その土地には様々な生物が暮らしているのに、それらを生かすも殺すも追い出すのも所有者次第ということになる。
その土地の中のもので、所有者が要らないと思っている物は、他の人が持って行っても文句は云わず、要るものは「自分の物だ」と主張する。中には、その土地に足を踏み入れることすら許さないという所有者もいる。自然に生えたタケノコやマツタケ等を、「自分の物だ」と争うケースがあるが、まるで滑稽で、人間の馬鹿さを見る思いがする。

海の海域にも所有があるらしい。海域を所有すると、そこに住む魚を所有していることになるらしい。いったい人間は何をやっているのか。
国境や領土に関する国家間の問題は、みな所有から来ている。
人間が作って設けた、国境や領土という所有の概念。それをめぐって人間同士争い合っている。

所有の起源は、おそらく他から侵されることなく、「自由に使える状態を守る」ためにできたのだと思う。そこには、力の弱い者を守るという意味も込められていたかもしれない。
しかし、所有という概念が「他の使用を禁止する」というものである限り、力の強い者は益々所有を拡大する。
法の下の平等は謳われているが、その法自体が所有を守る法だから、法にそって力のある者は所有を拡大し、力のない者は所有が少ない。
中には力づくでも領土を広げたり、人を従わせたりして、所有を拡大する者がいる。一旦、所有すると、自他共に認める、その人、或いは、その国その組織の所有物になる。

今の人間社会は、所有一色のような気がするが、やがてこれも崩壊して、所有のない世界になると思う。
もしも、法を設けるなら、「なんびとも誰の使用の禁止・制限もしない」という法を設けたら如何がなものだろう。
自然の産物はもちろん、農産物も工業生産品も全て誰もが「自由に使える状態を守る法」を設けては如何なものだろう。

「そんなことしたら無茶苦茶になる、社会が成り立たない」と思うのは、あまりに知恵がない。
人間が協力し合って、人間の知能を駆使すれば、いい方法(法)を産み出せると思う。

2005.2.12
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