BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― < 精神革命 > ――
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Category: < 精神革命 > | 2005.08.13 Saturday 08:32

研鑽が実現したら・・・

どうなるか、ということは、研鑽を実現したら分かることで、
研鑽を実現しないままで、「どうなるか」を論じてもね。

研鑽ということには惹かれるけど、研鑽って何なのか、研鑽が実現しているのか実現していないのか、分からない。
と、このままでは何も進まないから、やはり、研鑽状態と、そうでない状態ということも、ある意味で必要かな、とも思う。

研鑽状態とは、キメツケなく、本当はどうか、と考え行動している状態。
・・・と、これは誰でも知ってるね。「わかってる!!」というヤツだ。
・・・で、「どうなるの?」と現象面への現われを知りたがる。結果主義というヤツだ。
研鑽状態か、どうか、「現象面に現れる筈だ」と、自分が現象面しか見えないものだから、なんとか現象面で判別しようとする。
でも・・・、研鑽状態は、研鑽があるか、ないか、で、現象面のことではないですから、ザンネーン!!

まあ、あえて言うなら、「新しい発想がドンドン生まれる」「間違いが続々と発見される」「現象面はコロコロと変貌する」・・・etc.
まあ、研鑽あれば、この程度の現われはあると思うけど、
こういう現象あれば、研鑽あるかと言えば、そうじゃない・・・と、逆は言えないから、現象から見ようとする人には研鑽あるか、ないか、見えない、ザンネーン・・・。

Category: < 精神革命 > | 2005.08.08 Monday 08:32

研鑽 と 盲信

山岸会・特講・研鑽学校・ヤマギシ、でやってきたことは、
正しく本当であろうと思われる人間や社会のあり方・考え方・生き方等を調べて実践することで、
そういうことをひっくるめて、「ヤマギシズム」とか「研鑽」と呼んでいたように思う。

しかし、本当を見つけ出して実践することが、「ヤマギシズム」や「研鑽」ではなく、
「ヤマギシズム」や「研鑚」によって、本当を見つけ出し実践することだと思う。

この差異は大変なもので、「ヤマギシズム」や「研鑽」の根幹を外したまま、「ヤマギシズム」や「研鑽」をやっているつもりでいた、ということにもなる。

自分が本当だと思ったことを実践する。
このことが既に「ヤマギシズム」や「研鑽」から外れているとも云えるだろう。
自分の考えによる自覚のないキメツケ、信じ込み「盲信」が、ベースになっている。
研鑽会で満場一致になる場合は、自分の考えを盲信(盲信=自己盲信)するひとりひとりによって、一つの決定が下されていることが多いのではないだろうか。
自分で良いと思ったことやるのは独走で、みんなで良いと思ったことをやるのは集団暴走行為だと思う。

キメツケているという自覚はなくとも、自分の考えで良いと思うことに重きを置く盲信者が、いくら寄って話し合っても、集団盲信を膨らますだけ。

「ヤマギシズム」とか「研鑽」という言葉は随分使ってきたが、その根幹を全く知らないでいるのかもしれない。
自分の考えで、信じることも、疑うことも、批判することも、裁くことも、できないのが当然で、そういう根幹なしに、「真目的を目指す」とか「あれが本当」だと裁いていては、小集団化して、反感・対立・壁ができるのも当然だと思う。

自分の考えを信じてキメツケる、盲信体質に一刻も早く気づいて、
気づいた人から、研鑽体得の道をゼロから、歩みたい。

Category: < 精神革命 > | 2005.08.01 Monday 08:30

研鑚知能開発 予科課程

昨夜、遅く・・・
研鑚していて、だいぶん、でてきたな。
本当、本当、と言っていても、本当の方へ、行けないのには、
まず、順序があって、本当は・・・・、という前に、本当は・・・、に行けるように、行けなくしているものを、自覚して、解消する、という順序。
それが、だいぶん、でてきたな。ついでに、そこ突破する方法・アイデアも・・・。
これは、なかなか、賜物と言いたいくらい。
先ずは、合宿して、それのみをやる場で、実験。

日常化するには、環境として、本当は・・・、指向の人の存在大きい。
社会気風によって、自覚・解消・本当へ、を促す。そういう真実研鑚会(幸福研鑚会)が必要。
社会に研鑚を実在させ得る人の養成を。

Category: < 精神革命 > | 2005.07.29 Friday 08:28

研鑚体得 予科課程

特講を受けたことがある人達が寄って、研鑚会になるための「研鑽体得」の課程
「本当はどうか」と口では言っていても、「本当」よりも目に見える「実績結果」の方が大好きな一般凡人のための研鑽機会
例えば・・・、
合格したら「良かったね」、不合格なら「残念だったね」の人達が寄っても、「本当はどうか」の研鑽会にはならないと思う。

「本当」が見えない人に限って、「本当なら結果に現われる筈だ」などと、「本当」より目に見える「実績結果」に関心があることの言い訳をする。
現象化する以前の「本当」を見抜けない明き盲(あきめくら)。若い「本当」の芽を次々とつぶしていく。

良いとされている結果を出せば評価され、その逆なら見下される、
そんな社会通念のまま、研鑚会をやろうとしても、「本当はどうか」っていう研鑚にならないと思う。
本当に「本当はどうか」と調べる「研鑚」を体得しようとする人の課程です。

Category: < 精神革命 > | 2005.05.08 Sunday 07:56

つづき

本質、本質、と強調すると、物否定の唯心主義のように思われるかもしれないけど、そうじゃなくて、
肉体の健康や、物を豊富にすることを否定するわけじゃない。否定しない、ということは、肯定するわけじゃない。
肉体が元気で健康、物が豊富にある、・・・で、「そりゃぁエエなぁ」と云えないもの。
元気で健康にこしたことない、豊富にあるにこしたことない、と思う人多いけど、本当にそうか、どうか・・・。
これが、現象面で判定する価値観。
人間の健康、物の豊かさは、現象ではない。「肉体の元気」や「物の量」では、健康か豊満かどうか分からない。
そこで、いちいち、本当の健康、とか、本当の豊かさ、などと言わなければならなくなる。
元気にしてても、明るくしてても、積極的でも、活発でも、軽くても、役に立ってても、物や金を放してても、皆と一緒に研鑽してても、・・・・・
何をしてても、本当の何々か、どうか・・・。
つまり、本当か、どうか、・・・ これは現象のことではない、本質のこと。
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