BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― < 精神革命 > ――
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Category: < 精神革命 > | 2008.12.25 Thursday 12:00

自分たちでやろうとする人によって

ブラジルからホメウさんが来ていて、今月の「自分を知るための研鑽会」「人生を知るための研鑽会」に続けて参加した。
「ブラジルで特講やってるけど、ゼロから見直したい。準備研とかやってるが、それより、やってる人たちが、まず“自分を知る”ことが先だ」と。
そして、早速ブラジルにいるケンジさんとも連絡を取り合って、ブラジルで「自分を知るための研鑽会」「人生を知るための研鑽会」をやりたい、やろう、どうしたらやれるようになるか」等々、話し合って、考えている。
日本でもブラジルでも同じだと思う。
自分たちで やりたい、やろう とする人が、もっともっと欲しい。

 (音声約1分間 1961/4/2 録音より抜粋)
またそれなれば情勢をつくろう、自分たちでどういうものか検べて、いいなればそういう情勢を作って、そして受け入れてやってみようと、こういうことになれば結構だと思う、一部にとどめておかないで、もっと広範囲に全国的に、そういう希望者があるなれば、その情勢を作ってもらったら、それからよく検べて、どうすればそれを取り入れてやっていけるか、検べて、検べた上で、自分たちで やれる、やりたい、やろう、とこうなった時に、やってもらったら結構だと思うんですけどね。各自の意志によって。

Category: < 精神革命 > | 2008.11.20 Thursday 22:00

その人ならではの心を・・・

 現在の「自分を知るための研鑽会」の主意は、本来の本当の自分を知る前の先ず「現状の自分を知る」課程。
 それは、「自分が見ているもの」「自分が聞いていること」というのは「自分の頭の中のこと」を指しているという自覚。事実だとしている見聞きした情報、体験や記憶も「自分の頭の中のこと」という自覚。
 そういう「自覚の無さ」と「我執といわれるもの」との関係が深いと思う。(我執という言葉は使わないけど)
 ・・・で、「自分を知らない自分を知るための研鑚会」という内容になってきてると思うんだけど・・・。
 それをやってきて、それでも自分の思いや妄想が強くて、人と共にする話し合い研鑽では仲々自分を冷静に観察するに至らない人などもあり、そこに重点をおいた「自分を知るための内観コース」を設けてみると、当初の予想を遥かに超えて、自己研鑽の深奥に迫る画期的な効果が上がってきました。

 このような経過をふまえて、その人がもっと的確に自分のポイントを自覚して、効果的に自分を知る研鑽が進むように、個別対応のプログラムというか、そういうものの必要性が浮上してきた。
 そこで、研鑽ライフセンターの研鑽会スタッフや研鑽科学研究所のメンバーで、一人一人の育ちや経歴や体験などを分析して、その人の心理面・精神面を把握して、アドバイスやコンサルトする機関を設けようと進んできました。
 それが 心の正常・健康化を専門的に担う機関(センター)です。

 表面的な言動でなく、そういう言動やその元の心理状態に至る、その人の内面に形成された心の状態を把握して、当人と共に研鑽して、他に真似のできない、その人ならではの心を育て発揮していこうとするものです。

Category: < 精神革命 > | 2008.06.15 Sunday 17:00

心理的方面の解決を

心境が良く、機嫌が良い時は、仲良く楽しくやっているが、ひとたび自分の意に沿わない、気に入らないとなると、心の状態が変わる人。
夫婦の形をしていても心が溶け合わない。
親子・兄弟・家族の形をとっていても責めたり疑ったり腹を立てたりする。
形だけの夫婦・家族・仲間・・・事柄や相手によって、心の状態を変える人。

疑ったり批判したり争ったり張り合うことに馴れてしまった人には、正常な心の状態の人を実感し難いだろう。しかし、元来、人の心というものは疑い嫉み憎しみ怒り不審などを好まないものと思う。そのような心の状態は不快で早く抜け出そうとする。


心の対人的持ち方 = 人間社会の基本
普通の健康正常な心の状態に立ち還らない限り、正常な人間生活も人間社会も営めない。

心が決して離れない人、心から堅く結束できる人、無我一体の心ともいえる。
そういう人に成り合わない限り、安定した快適な社会は訪れない。
一体の心とは、誰かと何かと一体ということではなく、いつでもどこにも壁や隔てを持たない状態。自分を所有しない人。
一体の心の状態に成ろうとする方向のない人が「人と共に」なんて決して出来ないと思う。対抗したり責めたり疑ったり邪推したりする心の状態では、決して愉快に人と共に暮らせない。
自分を知り、人生を知り、社会を知るは、一体の心の人に成り合うためのもの。自分や人の成り立ちや繋がりを知ることで、幅らない突っ張らない、謙虚な、謙虚な心が育つ。それが一体の心の方向。そういう人が寄って社会ができる。
そうして、自分自身が謙虚な心、一体の心を目指して行くと、人の心の謙虚さ、一体の方向性、つまり目標を等しくする同調の人も見えてくる。
何十人、何百人寄っていても、一体の方向にある人か否か。それが実質と思う。
一体の方向にないものをいくら増やしたって無意味。
一体の心の人に成り合おうとする同調の人々と共に。

・・・自分の足下を自分で崩して気が付かない迂濶者が、追々と湧いて来ましょうし、現に方々に、他からの逆宣伝と呼応して、賑やかになりつつあります。
 これも予想に織り込まれた一時的現象で、こうしたウィルスも、やがては事実と云う太陽に照らされて消滅し、真実の人達の前にひれ伏すことは決定しています。
(一卵革命を提唱す 前説 より)

Category: < 精神革命 > | 2008.05.23 Friday 17:00

自分を育てる

本当に「自分を育てよう」としているか、と問うてみると・・・、
もっと進みたい、もっと良くなりたい、或いは、なんとかしたい、・・・などは、自分、自分と、自分にこだわっているにすぎないのではないだろうか。
自分を知りたいという思いだけでは、客観視できないし、自分をよく見ることもできない。

学問・芸術・技術・スポーツ・その他、その道で「自分を育てよう」とするなら、どうするか。
やはり、自分より進んでいる人、先を行く人、目指す人をよく見ることだと思う。
外観や言動ではなく、その人の中身を見る。凄いとか憧れるとか崇拝的信仰的態度ではなく、自分とは何が違うのか、どこが違うのか、よく観察して、自分の課題を明らかにしていくことだと思う。

「自分を育てる」とは、先ず、人をよく見ること。
先を行く人・進んでいる人をよく見るということ自体、自分の栄養・肥やしになるだろう。劣等感や引け目・卑下があると、先をいく人をよく見ようとしない。正視できない。
自ら近寄ってよく見て、空気を吸って、感得することだと思う。

職場や研鑽会など、自分がその場を創る・進めるというところに立っている人は、とても恵まれていると思う。自分を育てて行ける場があるということ。その場を創る・進めるには自分が育つしかないということ。
身を以って知ることになる。
「自分を育てる」とは、自分一人のことではないと思う。
「自分を育てよう」としている人は、自ずと「人を育てよう」とする。
そういう人に、人は寄る。

将来に理想の人を置いている人は、仕事も出来るし、人間も完成される。(1961 理念研より)

Category: < 精神革命 > | 2007.09.23 Sunday 10:30

「自分を知る」とは (研鑽会用解説)

「自分を知る」とは

誰もが、自分らしさを知り、自分らしさを発揮して生きたいものです。
もしも、不愉快や不満があったり、のびのび溌剌とした状態ではないとしたら、自分らしさを見失って、自分らしくない考えや行動をしていることに原因があるのかもしれません。
「自分を知る」には自分以外のものは要りません。外から取り込む必要はないのです。
今の自分をよく見て、ありのままを観察して調べていくことにより、何を、見て、聞いて、思い、考え、話しているか等々、自分そのものが鮮明に見えてきます。そうして、自分を見失わず、人と共に歩む、地に足の着いた自分を実現していくのです。

「自分を知るための研鑽会」

実際はどうなのか、本当はどうか、と、どこまでも観察し調べていく機会が研鑽会です。自分はこうなんだ、分かっている、ダメなんだ、なども一つのキメツケで、ありのままの自分を観察できません。
数人のワークショップ形式で話し合いますが、勉強や習い事の会ではなく、どこまでも自分で自分を観察し調べる機会です。個々で行うよりも自分を知ろうとする同じ目標の人の相互研鑽によって、反応し合い調べ合いながら、自分を見つけ出そうとするのが「自分を知るための研鑽会」です。

「自分を知るためのステップ」

○自分の感覚であるという自覚
 五感について  感覚全般について
 思い・考え・気持ち・心 と 感覚

日常生活の殆どが、自分の感覚器官で受け取り、自分なりの認識で捉えたもので行動しているということをじっくりと調べます。
そして、感覚や認識は、一人一人違うということをじっくりと調べます。

○五感+認識のメカニズム
 五感と認識で「実際がこうだ」となる?
 知識・経験で「実際を知った」となる?

人から教えられたり本で読んだ知識によって、事実や実際を知っているつもりになっている。人や物事についても断片的に見たり聞いたり体験したことによって、その人や物事を知ったつもりになっている。
事実や実際を本当に知っているといえるものは、どれだけあるだろうかと調べていくことにより、自分の頭の中の「知っているつもり」と、自分自身の実際とのギャップが見えてきます。そこが「自分を知る」始まりになります。

○事実そうなのか
   自分がそう思っているのか
 頭の中のことであるという自覚
 実際はどうかに関心が向く
 実際の自分を知る

自分の頭の中にあるものを一つ一つ紐解いていくことにより、ありのままの自分の状態が明らかになってきます。頭の中の状態が明らかになってくると、それと密接に繋がっているであろう喜怒哀楽の感情や心の動きや、自分の考え方や性格も明らかになってきます。
「自分はこうなんだ」と自分なりに捉えた自分ではなく、日常生活においても「自分の頭の中でどうなのだろう」「実際はどうなのだろう」と、分類して、自分や物事を観察し、調べることを愉しみながら、自分の持ち味・生き方を明らかにしていくスタートになるものです。
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