BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― 5.「無所有一体」生活の実験的段階 1958年〜 ――

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Category: <無所有一体へ> | 2005.02.25 Friday 21:36

5.「無所有一体」生活の実験的段階 1958年〜

所有する物が何もない状態、自分の家もない 自分の土地もない 自分の財産もない 身軽さ 気楽さ 自由さの中で、志を同じくする多くの人と共に生活する。
宿舎を建て、食堂や風呂をつくり、みんなで仕事をしながら暮らしを作っていく。
「無所有一体」の生活、「無所有一体」の社会は、従来の組織運営や社会機構とは全く異なる、かつてない新しい営み。
外見は、共同生活・共同事業を営む共同体のように見えるが、共同や共産ではなく、「無所有一体」をやろうとした。
分配や割り当てがない、個々に報酬がない、子供のための生活の場を設けて子供の係を置いた、仕事は分業制、生活面もいろんな役割を手分けしてやった、委し合いの係役制で長や上下がない、働く人も働けない人も差別がない、・・・・・などなど具体的な事例を数え上げれば切りがない。
数百人もの人が一ヶ所に集合して、個々に持たない暮らし、みんなで話し合って進める暮らしを実践した。
一般常識的な見地からは、全くかけ離れた現実だが、これも全財産を放して「無所有一体」をやろうとする人たちだから、できたのだろう。

この生活体は順調に進んだわけではなく、間もなく周囲から非難・危険視され叩かれた。また物質的にも相当窮乏した。そういう事態に至って「もう、かなわん」と離れていく人と、「これからが本番」と結束を固める人達とがいた。

同じ目的の下に集った同志だが、事態が変わると離れていく人と、より深く親しくなる人とある。
「無所有」か「無所有でない」か、「一体」か「一体でない」か、順調に進んでいる時には見えなかったものが、いろんな事態に直面することによって現れてくる。事が起こる度に「無所有一体」か、そうでないかが試される。
利害や思い考えの一致で寄る「共同」は、一致しなくなると寄る意味がないから離れる。
「一体」は、どんな事態になっても決して離れ離れにならない。「一体」だから離れようがない。
「共同と一体のちがい」

いくつかの試練を経て、「無所有一体」生活は試されたと言える。
私物化しないで、みんなで物を使い合ってるからといって「無所有」とはいえない。
同じ場所で共に暮らしているからといって「一体」とはいえない。
離れて暮らしているからといって「一体でない」とはいえない。
「無所有一体」とは、一ヶ所に物を集めることでもない、一ヶ所にみんなで暮らすことでもない、ということが明らかになってくる。

「無所有一体」とは、何も持たない隔てのない溶け合った状態で、「無所有一体」生活をするということは、そういう状態の人になることだ。一ヶ所に物を集めたり一ヶ所に集合生活したのも、そういう状態になるための一つの環境面での方法であって、その形態を「無所有一体」生活というのではない。

いくら「無所有一体」に共鳴し、それを志した人でも、だからといって「無所有一体」の人になっているとは言えない。志を同じくする人が寄って、いろいろな方法を考案し、実験しながら、「無所有一体」の方向へ「無所有一体」の方向へと仲良く協力しながら研鑽していく暮らしにこそ、「無所有一体」生活実現の鍵があるのではないだろうか。
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