BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― 3.無所有社会について ――

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Category: <無所有一体へ> | 2005.02.22 Tuesday 21:32

3.無所有社会について

「無所有」の語は、ここでの専用語でもなく、例えば仏教系の資料などでは度々お目にかかる。
「無所有」とは、主に人間の心境、いわゆる執われのない境地のことを云うことが多いようだ。
ここでも「無所有観念」という場合は、所有観念から解放された状態、所有が植え付けられる前の元々の人間の観念、我欲・我執のない状態などを指している。
今の世の中は、所有という制度を用いて、人と人との間を保ち社会を構成していると言っても過言でない程にまで、人心観念界に所有という概念は深く浸透している。所有観念が身に付くまでには、相当のエネルギーを要していると思うが、社会全体が所有を基盤にして動いているから、幼い頃から所有を教える特訓をすることが親の責務となっている。所有を知らない子供は親の責任となる。
「所有」という共通の概念を持ち、その「所有」を基盤にした社会制度を設けている。
「無所有」が、理に叶った人間の自然な姿、正しいあり方だとしても、それは、心境や意識や観念の状態のことであって、そこから「無所有」の人の営みとはどういうものか、つまり「無所有の人間社会」というものを考えてみたい。
前にも述べた通り、人間以外の動物世界は「無所有」であると思うが、人間には人間ならではの営みがあるので、人間が他の動物と同じように暮らせば「無所有社会」だというものではないと思う。人間には人間の暮らし方があるから、人間は他の動物のようには暮らせないと思う。前後するが、そういう論から、所有や権利・義務、法律・罰則なども、人間ならではの営みだと言う人も当然多い思う。
「無所有社会」とは、人間らしさを排除した自然原始的社会ではなく、所有や権利・義務、法律・罰則に依らない、それよりもっと人間らしい営みの社会である。
法律や罰則を設けなくても、仲良く円滑に安定した社会生活が営めれば、それを嫌がる人はいないと思うが、それが出来ないから法律や罰則が要るのだろう。同様に、互いの欲求や必要を認め合って、仲良く適切に使い合えれば、誰々のものだから勝手に使ってはいけない等と監視し合って所有を守らなくても安心して暮らせるだろう。
そういう人間社会は無理なのだろうか。

所有して囲う必要がない社会。誰のものでもない、誰が使ってもよくて、奪い合いや争いが起こらない社会。お金や権力が必要なく、物も人も欲しているところ、必要とされているところへ、流れるようにスムーズに動いていく。人の心や意識が「無所有」であるだけでなく、社会の機構・制度も「無所有」に基づいたもの。

このように「無所有」に基づく人間の営み、「無所有社会」を考えてみると、「無所有」という言葉の持つ意味、例えば「執着・我欲・我執がない」等の他に、大事な人間的要素が浮かび上がってくると思う。
それは、ひとことで言うと「人間観」かと思う。つまり、人間性とは何か、人間とはどういうものかを知ることだとも云える。
昔から、性善説とか性悪説とか云われるが、どちらでもなく、人間とはどういうものか。放っておいたら、何をするか分からないのか。とても悪いことをする人がいるから、囲いが要る、取り締りが要る・・・・、と罰則を設けている。悪いことをする人向けの社会とも云える。
人間は、そういうものを設けないと、他を侵したり独り占めしたりするのだろうか、法律や罰則もなく、奪い合い争いもなく、協力し合う人間社会を研究したいと思う。
助け合い、協力し合い、譲り合い、贈り合いを否定する人はいないと思うが、所有や罰則なく、それだけで人間社会がいけると思う人は少ないかもしれない。

「やはり、所有や罰則は要る」としている既成観念を外して、零から人間を見直してみると、「所有や罰則の要らない社会」の要素が見つけ出されて浮かび上がってくる。
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