BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― 非常識 大好き! ――

<< 鈴鹿を「循環共生型のコミュニティ」に | main | 研鑽科学 第2号 が出ます。 >>

Category: <山岸さんの声など> | 2009.11.25 Wednesday 00:00

非常識 大好き!

最初の飛行機の考案・実験
罰則も統制もない社会の考案・実験・・・
考案の段階では、誰も相手にしない。
実験の段階では、失敗をあざ笑う人ばかり。
わずかに進歩的な人だけが注目する。
荒唐無稽・非常識とされていたことでも実用化されれば、やがて、それが常識となる。


ヤマギシズムとは何だろう?  副題 ヤマギシズムを理解するには

 知恵、知識、良識、常識、非常識について
 世の中には、意外なこと が随分ある
 昔から、みんながやっている、本にもそう書いてある、こうしてやって来られたんだから、それでよいと 思い込み、気が付かないで、常識として、簡単に片付けている。
 お前は非常識だ と叱る人がある。しかし、常識には、沢山の間違いがある、と言えば、何でも常識でやらなくてどうするんだ、馬鹿な、と、チョンマゲ頭を大事にしている。
 自分の考え は大切にしたいものらしい。しかも、常識という多勢を 味方に頼んで威嚇する、正当化しようとする、守るに急にして、聞こうとしない。勝ち負け感も手伝う。
常識は正しいものだ、など思い違いをしている。
 常識は果たして正しいか、非常識は間違いか
 こんなこと常識で判断したって判るじゃないか、常識で判断しないで何で判断するんだ。常識外れだ等々、よく言われるが、常識とは果たして何だろうか。
 昔、おかごの時代に、聞いたことも、見たこともない人ばかりの中で、自転車の話をしても、サッパリ見当がつかんだろう。その原理を話しても、文章に書いても、自分達には縁の遠いひとごとくらいで、聞くさえ煩わしいと耳をかさない人や、反対の理屈でまぜ返し、大勢の物笑いで葬るだろう。画に描いて説明しても仲々相手にしない。躍起になって熱心に話せば話すほど、馬鹿にしてかかる。
 実物を持ってくる、こんなもの乗れるか。せめて、車が三つあるか、両方にあるなれば、まだしもだよと、利巧そうに知ったか振りをして、みんなに聞かせるのも出てくる。
乗ってみなさい、乗れるものか、で押し問答の末、乗って見せる。こちらが乗り初めで、ハンドルが危なく、フラフラヒョロヒョロで見ていられない。転覆する。どっと嘲笑が起こる。ざまあみろ、乗れないのが当たり前だ、と決めツケる。
 ところが、こちらが上手に乗りこなした場合は、また、あの男だから乗れるのだ、と勝手な理屈で軽業師にしてしまう。
 乗って下さい。いや乗らんでも二本の足がある。馬も確かで、眠っていても行ける安全なカゴもある。なんでわざわざ軽業師の真似して、転んで骨でも折ったらどうするかと、長老が分別顔する。
 息子が乗ってみようかと近寄れば、「馬鹿」の一喝で親の威厳を示す。やめてくれ。うちの大事の息子を、あんなオッチョコチョイの世間の笑われ者の仲間にしてたまるか。二度とすすめてくれるな、さあ帰ろうと、息子を引きづって帰る。そのうちにも進歩的なのがいて、乗ってみる。乗ったかと思うと、すぐ転ぶ。ぶっつけて自転車は壊れる。ケガはする、これ見ろ、やっぱり乗れんじゃないか。初めから乗れんと言うとるのに無理にすすめよって、こんな事になったと息巻く。
 みんなから新物食いと嘲られる。悔しいから、乗れるまで稽古する勇敢な者も出てくるが、あそこの息子も物好きのオッチョコチョイだ、と異端者扱いされる。村の人はそれらを軽蔑し、新物に手を出して笑われたくないから、仲々自転車を手に入れようとせない。
 自転車の初めはこんなものだった。初めて、自転車レースがあった、「トバシ」とあざ名つけられていた新進青年が出場した。勢い余って側堤に乗り上げ、桜の木にぶつかった。見物はよろこんで手をたたいた。それから、その青年の名「二吉の木登り」と、いよいよ有名になり、伸びようとする村の青年の戒めとし、これに限らず万事かような見方から、保守こそ美風・安全、革新は軽薄・危険との観念が村人を時代から大きくずれさした。
 時は数十年流れたが、保守・旧守頑固観念が村の進歩発展を阻害している大きな弊害に今なお気付こうとしていない。絶対あってはならない部落融和の大問題も今なお残している。
 どんな古いことでも、良いことは大いに保存し、生かし、伸ばすことだが、良いことだと思い込んだ観念や、これで当たり前だと、気付かないまでに常識化した観念から物を観察し、これでよしと判断して、いつまでも陋習を守ることは愚かしいことだと思う。
 当時、非常識だった自転車は、今日どうだろう。当時の常識のチョンマゲ頭で、おかごに乗って今日の街を通れることは非常識じゃないだろうか。
 常識は少数の非常識に始まり、非常識が常識になり、その時分には、常識が非常識にもなることを思えば、世界中の人が幾千年そうだと思い込んでやっている常識観や、その行為を、間違いなし、正しいとして決めツケる頑固さを少し弛めて、原水爆、人工衛星の時代らしく、果たしてこれで良いのか、もっと進んだ、新しく、且つ優れた方法はないものかと、視野を拡げてみてはどうだろう。
 人類の幸福のために、電気・原子力等の効果以上のもの・方法が、発明・発見・考案・実演されている事実を聞いた場合、無名の一部の非常識連中の戯言ぐらいに聞き流さないで、一応採り上げて研究試験して、検べないものだろうか。

(1959年 正解ヤマギシズム第一輯 より)

Trackback URL


▲ page top