BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― 迂闊な人間 ――

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Category: < 人 間 理 > | 2009.02.10 Tuesday 12:00

迂闊な人間

 人間は案外、迂闊な生き物で、たまたま自分が置かれた状況や、たまたま自分が巡り合ったものによって、「こうしたい」とか「これをやりたい」という欲求が生じて、それに人生を費やして生きて行く。

 釈迦の教えに出会って、それをやりたいと思い、生きて行く。
 ヤマギシズムに出会って、それをやりたいと思い、生きて行く。
 そういうものに巡り合わなければ、それをやりたいとは思わなかった筈。
 そういうものに惹かれるものが自分の中に有ったからだと言うが、それなら、そういう自分の中のものに沿って生きて行こうとするのではないか。自分の中のものではなく、巡り合ったそれに、はまり込んで生きて行くのは何故だろう。

スポーツをやりたい、芸術をやりたい、学問をやりたい、
医者になりたい、政治家になりたい、技術者になりたい、
会社をやりたい、農業をやりたい、趣味をやりたい、教育や福祉をやりたい、
家庭を持ちたい、家族を養いたい、子どもを育てたい、親を世話したい、
仕事が欲しい、お金が欲しい、社会を良くしたい、争いを無くしたい、
 どれも、これも、状況や出会いによって生じた欲求
 状況が変われば、出会いが無ければ、生じない欲求
 そういう思いが自分の中から湧いてきたと言うが、それなら思いの前にある、思いが湧いてくる元が自分の中にある筈。それによって生きて行こうとしないのは何故だろう。

「やりたい」という思いが、嘘だとか間違いだと言うのではない。
思いの対象は、たまたまの状況や出会いによって生じたもので、自分の中にあるものは「思いの対象」ではないだろう。

 ヤマギシズムをやりたい、研鑽生活をやりたい、無所有をやりたい、一体をやりたい、金の要らない村をやりたい、実顕地をやりたい、特講をやりたい、研鑽学校をやりたい、ヤマギシ会運動をやりたい、研鑽コミュニティをやりたい、研鑽会をやりたい、等々・・・・こういうのは、どうなんだろうね?、何から来てるんだろうね?、何か観念づいたものを追ってるんだろうね。
元々こんなのをやりたいと思う人間は、いない筈。
 「運命的な出会い」とか「出会いが人生を変えた」とか「自分が心からやりたいんだ」とか言うけど、たまたま遭遇したものに、はまり込んでいるだけで、本当に自分の中のものを観ようとしていないことが多いと思う。
 やりたくもないことを意義づけてやっているのもバカだけど、
 自分はこれがやりたいんだと思い込んでやっているのもバカだよね。
 たまたま目の前に現われたものを、やりたい、やろう、としてやっているが、本当に自分は何をやろうとして生きているのかな。

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