BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― 「あらわれたもの」 と 「そのもの」 ――

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Category: < 研鑽の理 > | 2008.12.21 Sunday 08:26

「あらわれたもの」 と 「そのもの」

 例えば、ホコリやゴミが付いたカップを見ると、「汚いカップだな」と見える。
 このことを調べてみると、「汚い」というのは、ホコリやゴミを見てのことで、ホコリやゴミがなければ、「汚いカップ」とは見えない。
 「汚いカップ」というのは、主体が「カップ」にあって、「カップ」のことを指して、そう言っているようだが、その実は、ホコリやゴミのことを指しているのではないだろうか。つまり、「カップ」が「汚い」のではなく、ホコリやゴミを「汚い」と見ているのだろう。「汚いカップ」と見えるのが、間違いだとか、おかしいということではなく、実際は、ゴミやホコリを「汚い」と見ているのに、意識の上では「カップ」を見ているつもりではないだろうか。
 ここでいう「あらわれたもの」とは、この「汚いカップ」の例ように、日常見たり聞いたり触れたりして、「認識して捉えているもの」とも云えるだろう。
 「そのもの」とは、この例でいうと「カップそのもの」とも云える。いくら、ホコリやゴミが付いていても「カップそのもの」は汚いものではないだろう。
 この章では、「あらわれたもの」と「そのもの」ということについて、
1.言葉 と そのもの
2.物象・事象 と そのもの
3.あらわれたもの と その人
以上の3部に分けて述べてみようと思う。
「あらわれたもの」と「そのもの」 序文より抜粋

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