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研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― 研鑽科学(ヤマギシズム)について ――

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Category: < 研鑽の理 > | 2008.08.01 Friday 20:00

研鑽科学(ヤマギシズム)について

【研鑽科学という表現】
40年以上に渡って、日本では「ヤマギシズム」という言葉が、団体固有の名称として用いられてきた為に、この言葉を用いると誤解が生じ易く、あえて「ヤマギシズム」という言葉を避けて、「研鑽科学」という言葉を用いています。
ヤマギシの組織が公表している資料やホームページには、「ヤマギシズム」について言及した解説は殆どなく、「無所有一体の生き方」などという表現がされてある。
無所有一体共用生活が「ヤマギシズム」ではない。
仲良い楽しい幸福社会を作ろうとする会や活動が「ヤマギシズム」ではない。
「ヤマギシズム」はイズムであり、考え方である。
「ヤマギシズム」からくる無所有一体共用の仲良い楽しい幸福社会というものはあるだろうが、
無所有一体共用の仲良い楽しい幸福社会が「ヤマギシズム」ではない。
無所有とか一体などの表現は古来からあるもので、理念でもないし、ヤマギシズムを表す言葉でもない。
敢えて云うなら、ヤマギシズムそのものが理念であり、研鑽が理念である。
「無所有一体社会が宗教化したら大変」(1961.10 第5回理念研鑽会)
「ヤマギシズムは言葉でも文字でもなく、現象でもなく、一つの考え方に過ぎないもので、・・・」(1960.4 ヤマギシズムと山岸会)
「ヤマギシズム」と呼ぼうと呼ぶまいと、中身が「ヤマギシズム」かどうか、つまり「研鑽」があるか、どうか。



【偏らない固定のない科学哲学、即ち研鑽】
研鑽という言葉は、学問・技術・芸術など専門的に深く究めるという意味に用いられる。
私たちが用いている広い意味での研鑽科学は、特定の人ではなく、人間なら誰にも当てはまると思われることで、研鑽(深く究める)ということを平易に云うと、安易に分かったとか出来たとか結論づけない営みとも言える。
日常の見る・聞くという行為でも、見たから聞いたから分かった知ったと結論づけないで、事実・実際・真相はどうなんだろうという考え方を研鑽と呼んでいる。
例えば、薬を飲んで病気が治ったり、拝んで病気が治ったりすると、
「薬を飲んだからだ、拝んだからだ」となる。
「物が落下するのを見て重力の作用だ」となる。
「形態を見て、無所有だ、一体だ、ヤマギシズムだ、研鑽会だ」となる。
これらは現象面を捉えて、そのものを捉えているつもりになっている例と云えるだろう。

このことを、もう少し突っ込んで見てみると、現状では「こんなことを言った人」「あんな行為をした人」と、発言や行動を捉えて、人を判断していることが多々あるだろう。犯罪と云われる行為をした人は悪い人とされるし、皆が喜ぶような行為をする人は良い人とされ易い。

研鑽によると、人の行為についても、現象面の目に見える言動よりも、その言動に至るその人の心の状態や考え方などに重点をおくようになる。
人の言動や凡ゆる事象について、人間の持つ感覚器官で捉えたものをベースにして、その背景や底にある内面・真相・原理を知ろうとする知能の働きが、科学であり哲学だと思う。



【研鑽の実現、本質的なものに重点をおく】
社会組織についても、現在までの社会通念では、規範とか秩序を重んじ、規律を守るとか、真面目に働くとか、そのような現象面のこと(行為)をとても重要視している。
人間教育・躾け・道徳などは、心を大切にしているようだが、やはりその結果、良い行為をするかどうか、行為が悪ければ効果がないと見なす。
良い行為をするのが良い人間で、心や考えが良いと見ている。
逆に、悪い行為をするのは、悪い人間で、心や考えが悪いと見なされる。
正しい心や考えを教育して、罰則によって悪い行為をなくせば、誰もが義務や責任、規則や契約を守り、物が豊富で便利になり、人の幸福や社会の平和が実現するかのように思われているようだ。
ヤマギシズムを名乗っていても、
私有財産を持たないとか、独断独走しないとか、皆で相談して決める等することが、ヤマギシズムを現しているかのように思い易く、そういったことに力を入れるようになる。
現に、どうすることが「ヤマギシズム」なのか、分からなくなっていると思う。
故に、今までやってきた形態を守り踏襲することで、ヤマギシズムを実践しているかのように、今日の活動に意義を付けたがるのだろう。

歴史的事実や社会通念によって「人間とはこういうものだ」との観念が強いために、人間や社会を本質的に見ようとする観点が育たない。現状の人間や社会組織をどうしたらよいかという発想から抜け出せない。

凡ゆる動植物は、正に自然体でそのものらしく脈々と生き続けている。
何故、人間には努力や頑張り、我慢や辛抱、規律や統制が要るのだろう。それは人間の本分である知性に逆行するものと思う。
自然体でそのものらしく生きる人間本来の姿を知ろうとしていないのではないか。
ヤマギシズムは「人間とは、社会とは」と、その本質を科学哲学する思想である。

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