BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― 共に暮らす 1 ――

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Category: < 一体の理 > | 2008.07.09 Wednesday 13:00

共に暮らす 1

10代のある時期から、この先、大人になって社会に出て、就職して、結婚して、子どもができて、家庭を作って、家族を養って・・・、
そんなこと、やってもなぁー、と悶々と悩んでいることがあった。

ふとしたキッカケで、ヤマギシズムというものに出会った。
考え方・主義・思想で、この生き方に惹かれたという面も強いが、
今、想えば、自分を一番大きく動かしたのは、
やはり、「共に暮らしている」という実態だと思う。
 (昭和40年代に触れた春日山と豊里)
そこは、何かをやるという目的で集まって来ていることは確かだが、それだけではない、次元の違うような何かを感じた。
何かをやっても何もやらなくても、「共に暮らしている」という感じかな。
子どもがいる、老人がいる、飲んだくれている人がいる、結婚や出産がある・・・・・・理屈に無頓着で講釈しない大半の住み人たち。


しかし、その後は、「共に暮らす」という実態についての研鑽もなく、他のことに多くの歳月とエネルギーを費やしてきたと思う。
そして、ここに来て初めて「共に暮らす」実態の研鑽が始まったと思う。
近所に住んで職場や研鑽会で顔を合わせていても、共に暮らしている人と、そうでない人がある。

一体(無所有)と呼んでもいいが、そんな言葉も理屈も要らない、それより前に、そのままで共に暮らしている人。
人は生まれながらにして、親兄弟など「人と共に暮す」実態を身をもって知っている筈、成長につれて自分を知り多くの人を知り、人と共に暮らす広大な世界に住み得るもので、それがその人の人生を如何に豊かにするものか言うまでもない。モノカネの富みなど比ではない。


しかし、成長過程で多くの不審感 警戒心 猜疑心などを身につけ、共に暮せなくなっている。
元来、人はひとりでは寂しい。友を求め、家庭を欲するのも、幼い頃に共に暮らした感覚からだろうか。少ない家族で小さな城に個々に貯えて、わざわざ狭く小さく生涯を送ろうとしているかのようだ。
知らず知らずのうちに身についた観念で「個々で暮らす」のがベースになり、その上で都合によって「一緒にやろう」という意識が生まれる。

「一緒にやろう」という後付け意識と、元から「共に暮らしている」のとは全然別ものと思う。

「共に暮そう」と、意識でそう思うのでなく、何の囲いも持たない元来の「共に暮らす人」に立ち還ることだと思う。そうはいっても現状では、周囲の気風や環境に依るところが大きいから、やはり「共に暮らせる人」が「共に暮らしている」実態が大きいと思う。
最も安全な、誰にも盗られぬ、子孫永久に栄える、世界幸福株に乗り換えているのに、何が貧乏しているのでしょうか。(山岸会養鶏法)
何処かの一角から、後で度々改修しなくてよい立派な道路と、交通整理係も要らない道標を創り、乗り物も用意し、これならいけると、誰でも共鳴して協力されるキッカケを、・・・(ヤマギシズム社会の実態)
「人と人が境なく共に暮らす」誰にも解り易い実態を・・・

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