BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― 共にやり得る人 ――

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Category: < つれづれ > | 2007.12.21 Friday 22:00

共にやり得る人

自分の意に沿わないと、ひっかかる人は、人と共にやることができない。
ひっかかるのは不愉快だから、人の中へ入らないようにするだろう。
ある程度の距離をおくスタンスをとるだろう。

自分の意に沿うことならやる。自分の意に沿う人とならやる。・・・というのは危ないもので、
意に沿わなくなったらどうか、容易に想像がつく。火を見るよりも明らか。

研鑽でやるとか、よく検討するとか、熟慮・熟考すると言っても、それは言い訳で、要は自分の意に沿うようにやりたいのだろう。
正義感の強い人によくある例で、正しくあろうとして、間違いだと思うことを正そうとする。
しかし、そこには、「間違い」と思うのも、「正しい」と思うのも、自分の考えだとの自覚がない。
「間違いだ」とか「正しい」とか言い切れないのに、間違いと思うことを拒否する。つまり、ひっかかる。ひっかかって気持ちが離れる、そして、離れているという自覚もない。
「人と共に」を勘違いして、人を「自分と共に」やらせようとする。自分が人と共にやろうとしていないという自覚もない。
建て前では「人と共に」と言っていても、自分の考えで、裁きを介在させていては、心底「人と共に」やれる筈もない。

自分の意に沿う沿わないに関わらず、自分の意見も考えも入れないで「人と共にやり得る人」になってこそ、そこから初めて、零位・一体・愛和・徹底研鑚が始まる。
揺るがない社会が実現するということは、
揺るがない人の繋がり結束が実現するということ。
「そういう人の存在」=「そういう社会の実在」

さて、自分は「人と共に」やれるか、どうか。
「人と共に」を指向するなら、自分から進んで、人と共にやろうとしてやってみることだと思う。
それが「自分を知る」近道だと思う。

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