BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― 「知る」 を 知る ――

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Category: < つれづれ > | 2007.12.20 Thursday 20:00

「知る」 を 知る

どうしたら、あんな事ができるのだろう? と思うときは「自分にはできない」という自覚がある。
しかし、自分がやったこともない、自分がやってもいない事について、無意識・無自覚に、「自分はできる」として、言っていることがある。
これは、仲々自覚しづらいと思う。
選手のプレー、監督の采配、政治決裁、経営判断の他、身近な人のやり方・手の打ち方などなど、批評したり批判する場合。
「じゃあ、自分はやれるのか?」と自問してみたらよいと思う。

泳ぎ方を聞けば、乗り方を読めば、使い方を見れば、「自分はやり方が分かる」「自分にもできる」となっている。「無自覚」
一体生活とか、研鑽生活とか、研鑽経営・研鑽運営とか、一つでやる、職場づくり、社会づくり、等々・・・聞いたり読んだりして頭で分かろうとする。
そうする元には、頭で分かれば、「自分はできる」という自信があるのだと思う。だから、先ず、分かろう、分かろうとする。
「分かればできる」という自信があるから。

「頭で分かる」ということを「知る」ことと勘違いしている。
研鑽会に何度も参加しても「頭で分かろう」としている限り、「知る」ことはできないと思う。
全然、分からなくていい、ただそのことを知ればいい、すぐにそのことを分かろうとする。よほど自分の頭に自信があるのだろう。

見た、聞いた、こうだった、こう思った、
そして、記憶を駆使して、予測、推測、憶測する程度のもの
自分はどれほど知っているのか、分かっていると言えるのか。


(S氏の前渉行程論1972年より抜粋)
・・・・・「知る」ということを別の角度から知る必要があると思います。
 「知り過ぎ」ということが言われますが、知るということに過ぎるということがあるかということなのですが、過ぎるということがないにしてもこれはやはり知るということにも順序や条件が必要であり、その間「知らない方がよい」ということも考えられるのです。
 人間、意識的にことを行うと、異なった結果が出て来たり成熟しないことがしばしばあったりして、その理由や目的を「言わねばわからない」「言えば出来ない」という事柄があり、「言ってもらえばわかる」「知らねば行えない」と考えている人にどのように及ぼしていくかということで困るのです。どのように仕組まれているかという仕組みの内容を知ってためになる人は、すでにその仕組みの中でそのような生活をしている人か、深く学術的に究明される人に限られます。深い内容のあるものには表面的評論的知識は、当人及び周囲にとって為にならないと思えるのです。

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