BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― 人の中身に焦点をあてる社会 ――

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Category: < 社 会 理 > | 2007.08.02 Thursday 23:00

人の中身に焦点をあてる社会

束縛や押し付けや待遇上の差別のない、極々自然な自由で平等な社会に立ち還りさえすれば、自ずと、それぞれの個性を磨き、持ち味を発揮し、お互いを生かし合う、幸福社会へと生長していくだろう。

立ち還るべくベースとなる人間社会は、もっともシンプルで素朴なものだが、人間そのものが複雑化し混迷した状態では、素朴な社会にすら立ち還ることができない。

人間そのものが問題となる。人間の正常・健康が焦点となる。

明るく楽しく元気に生き生きとやっている、喜びや感謝に満ちて、充実感・満足感を持ってやっている、他の人を思い、気配りを忘れず、礼儀正しく真面目で誠実な人、・・・等々の条件が揃うと、正しい人のように思われがちだが、これらは全て現象面のことだろう。

その人が、正常・健康か、どうかは、その人の中身のこと。
その人の中身に焦点をあてることになる。

仕事をキチンとこなす、よく働いて業績を上げている、人あたりが良くて清清しい、等々も現象面のこと。

現象面に関心ある人たちによって、現象面を重んじる社会気風ができる。
逆に、現象面のみに捉われないで、その人の中身に関心ある人たちによって、中身に焦点を当てる社会気風ができると、楽しそうに生き生きとやっているとか、業績が上がった等で、良かったとならないばかりか、そのようなことにあまり関心が向かない。
喜びに満ちて感動していても、或いは、その逆であっても、だからどうのこうのでなく、その人の中身はどうか。
そこの人たちも、そこの気風そのものも、現象的に何があっても、嬉しいもガッカリもない、とても淡々とした営み。

喜びや満足感・充実感などを欲するのは、その人自身の中に何か枯渇していてその反動の現われではないだろうか。
現象化した心境面というものは、その人の中身と裏腹であることが多い。
(寂しいから楽しもうとする、ひけ目があるから対等であろうとする等)
喜びや満足感・充実感があるというのは、あまり正常な状態ではないのかもしれない。


その人の中身とは、その人の方向性とか、内在する可能性などでは、ないだろうか。
そんなことは、分からない・難しい、としないで、そこがその人の中身だとしたら、そこに焦点をあてて見ようとしないでは、いつまでたっても、現象面の砂上の楼閣を追うばかりだろう。

自分も含めて、この人はどんな方向性にあるだろうか、状況が変化したらどう出てくるだろうか。(今はわれ、ひとと共にと思っていても豹変しそうな人など)
今のその人は一時的な過渡的・段階的な、その人の一側面・一断面で、その人の中身ではない。
その人の中身はどんなか。

シンプルで素朴な人間に立ち還るところから、人間本来の社会組織が始まる。

いつも、いつも、その人の中身を重んじ、中身を見ていこうとする人たちによって、中身に焦点をあてる社会が実現していく。
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