BOOKS: 『SCIENZ(サイエンズ)』
研鑽科学(ヤマギシズム)について(2008.8.1)
「ヤマギシズム」という語は、もう既に使う必要がなくなったが、「ヤマギシズム」という語が使われている間(消滅し終わるまで)は、その語源を明らかにしておきたいと思う。
―― つれづれ無為乱筆3 ――

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Category: < 研鑽の理 > | 2005.01.30 Sunday 07:39

つれづれ無為乱筆3

生まれたばかりのライオンを、オリの中に入れて育てたらどうなるのだろう。
動物には環境適応性というか順応性があるだろうから、生育に必要な日光や空気、適度な飲食物があれば、それなりに成長すると思う。
大きくなってから多くの動物がいる広い草原に放したら、どうなるだろうか。
眠っていた本能が目覚めて、それまでになく活動的になり、“水を得た魚のように”広い草原で伸び伸びと走り回って暮らすようになるだろうか。
或いは、個体差があったり、年齢によっては、高齢になればなるほど、オリの中でしか生きられなくなっているかもしれない。草原で生きるのが本来のライオンだとしても、生まれてから一度も草原を体験しないで、成長したら、さすがのライオンでも、草原では生きられないライオンができるかもしれない。
ライオンの本来の姿とは、どういうものだろう。或いは、動物は環境に適応して生きていくのだから、そのもの本来の姿なんて、ないのだろうか。

さて、人間の場合は、どうだろう。
何ものにも縛られることなく、自由闊達・積極的で、明るく元気で、心豊かで、情厚く、生き生き伸び伸びと健康でありたいと、私は思う。
人間も自然界に生まれた動物だから、環境適応力や順応性がある。地球上の様々な自然環境に適応して暮らしている。
先に述べた、ライオンのように生まれた時から、オリの中で成長し、大きくなってから、オリから出たら、どうなるだろうか?

人間の場合、自然環境だけではなく、人為的に環境を作り、囲いや境界を設け、規則や罰則、道徳などの様々な規律を設けて暮らしている。
こういうものは人間にしか出来ないことだから、これこそ人間らしい営みだ、という人もいる。
また、このような人為的な規律を無くしたら、他の動物の同じだ、という人もいる。

今日の人間社会で、人が成長する環境を見てみると、“あれはしてはいけない”、“これはしなければいけない”、“これは良いことだ”、“あれは悪いことだ”、“これはこうなっている”、“ここではこうするものだ”、等々の決まりごとを教え植え付けることが教育や躾けの主たる目的になっているような気がする。
これも、ある意味では、生まれた時から厳重なオリの中で暮らしているようなものだと云えないだろうか。
こういうものを取り払ったら、人間らしさを失い、人間は獣のようになってしまうのだろうか。
オリを取り払ったら、伸び伸びと本来の人間らしさが発露するのか、或いは、何処に居たらよいのか何をしたらよいのか分からず、不安にかられて、オリの中の方が安心だ、となるのか。

“すめばみやこ”という言葉があるくらい、環境適応力とはエライもので、オリの中でも不自由を感じない、オリがないと不安になる、というところまで人間は行っているような気がする。
・山のようにたくさん積まれた物は、食べるため使うために生産されたのだろうが、使いたくても欲しくても、お金のない人には得られない。
・人間が設けた国境の向こうへ行きたくても、パスポートやビザが無ければ行けない。
・テレビやゲーム等あそび道具がないと遊べない子供は、原っぱへ行っても“遊ぶものがなくてツマラナイ”ということになる。
・社会の間違いは指摘するが、その社会の中で上手に生きていこうとする。

人間は、人間ならではの頭脳や技術という特徴を生かして、他の動物には真似られない営みをする動物だと思うが、現状を見る限り、人間が作って設けたもので、人間同士が縛りあい、押し付け合い、不愉快な思いを我慢しながらも、諦めに似た先入観からか、不自由も不満も感じなくなっているようだ。他の動物以下のところが随分あると思う。

オリは、人間社会には必要だ、という人もいる。
オリがあるからといって、不自由ではない、という人もいる。
オリという表現が間違っている。規律や道徳は、人間ならではの立派な文明の証だ、という人もいる。

人倫・道徳・人の道・・・・社会性や社会規範、等々を人間らしさとして唱え教えるものは昔から多くあるが、そういうものを強調すればするほど、自然な自由さが失われていくように感じる。つまり、人間らしさから離れていくように思う。
自然な自由さなどは、野性的で人間らしくない、という人もいるのだろうか・・・・。
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